江戸時代から「信仰と眺望の名所」として親しまれ、明治の「鉄道唱歌」などにうたわれた愛宕神社の鎮座する「愛宕山」。標高26mで平坦な形をしており、昭和初期には「愛宕山は江戸城の濠を造成した際に出た堀土で築造した人工の山」という説が唱えられた。そこで今回は、その根拠とされた「愛宕トンネル工事」とそれを否定することになった「NHK放送会館建設工事ボーリング調査」を紹介する。
私が『土木施工』連載「なぞのスポット東京不思議発見」に掲載した記事を加筆再構成して、この話を紹介、そのあとに『江戸名所図会』や『東京名所図会』に描かれた名所愛宕山と「愛宕山築山説」について説明する。
また、この時の取材で愛宕神社の宮司さんに「社務所が愛宕山防護壁兼用ビルの最上階」であることを教えていただいたので、紹介しよう。
このブログの予告編的なYouTubeショート「江戸名所愛宕山の江戸城堀土築山説」をリンクする。
[参考文献]
東京ふるさと文庫8『港区の歴史』俵元昭・文 東京にふる里をつくる会・編 名著出版 昭和54年(1979)
『東京市史稿』市街篇 第七八』東京都公文書館 1987(昭和62)
『港区の文化財 第8集 新橋・愛宕山付近』港区教育委員会 港区文化財調査委員会 昭和47年(1972)
『新修港区史』港区編集・発行 昭和54年(1979)
ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会Ⅰ』市古夏生 鈴木健一・校訂 筑摩書房 1996年(平成8)
『東京名所図会』中野了隨 小川尚栄堂 明治23年(1890)
「愛宕神社参拝のしおり」愛宕神社々務所
「NHK放送博物館」ミニ放送史 NHK放送博物館
「平地から急に聳え立ち断崖形成の平坦な地形」の愛宕山
山海堂『土木施工』2004年(平成16)9月号
(本文・写真・イラストマップ等は取材当時)
都営三田線御成門駅と営団日比谷線神谷町駅の間に、平地から急にそびえて断崖を形成している標高26m、広さ6000坪の「愛宕山」がある。
山の下を愛宕トンネルが通り、平坦な頂上には江戸城南方の鎮護として慶長年間から鎮座する「愛宕神社」がある。愛宕山は江戸時代から信仰と眺望の良さで知られ、日本初のラジオの本放送を開始したのは、愛宕山にあったJОAK東京放送局(NHK)で、現在は「NHK放送博物館」になっている。
▲愛宕山の愛宕トンネル その左は愛宕山エレベーター 山上の建物がNHK放送博物館
標高26mの「愛宕山」は江戸時代から「信仰と眺望の名所行楽地」
愛宕山は武蔵野台地の東端に位置するため、見晴らしがよく、江戸時代より信仰と眺望の名所として親しまれた。眼下には、大名屋敷の連なる大名小路が広がり、江戸の町が北から南まで一望でき、彼方には白帆の船が浮かぶ江戸湾が見渡せた。
▲『東京景色写真帖』江木商店[明治26?]国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/764109/1/73
明治初年に内務省地理局が行った測量によると、愛宕山下の起点海抜6.1375m、山上の起点は26.2361mであった。
都下有数の展望を誇る愛宕山には、愛宕神社に向かって左手に、明治22年(1889)に西洋料理の愛宕館(のちに東京ホテルと改称)が開館。煉瓦造りの5階建て展望台の「愛宕塔」があり、「海面より183尺(55.4m)の東京隨一の高塔」からの眺望を売りにした東京名所だったが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。
大正14年(1925)JОAK東京放送局(翌年にNHK放送局)の局舎が愛宕山に建設されたのも、標高26mの台地地形が立地条件にかなったからのようで、ラジオの本放送はここから7月に開始された。
以後「愛宕山」はNHKの代名詞になっていたが、昭和14年(1939)に千代田区有楽町に移転。愛宕山での放送は5月に終了した。その跡に昭和31年(1956)に開館したのがNHK放送博物館だ。
大正12年(1923)におきた関東大震災の復興事業の区画整理に伴う道路計画で、愛宕山を挟んだ東西の交通路として「愛宕トンネル」がつくられ、昭和5年(1930)に開通式が行われた。
「愛宕山江戸城堀土築山説」を生んだ?「愛宕トンネル工事」
「愛宕トンネル工事で地層確認されなかったから」の築山説
愛宕山について、江戸城の濠を掘った際の揚げ土を盛り上げて築造したものだという「愛宕山江戸城堀土築山説」というものがあった。その根拠は「愛宕トンネル工事の際に壁面に地層らしきものが見当らなかった」からだという。
しかし江戸城の濠の大部分は、日比谷入江などを埋め残したり、溜池の外濠のように自然の地形を利用したもので、掘って築造したものではなかった。
神田川の三崎橋から柳橋までは、元和6年(1620 2代将軍秀忠)に人工的に掘られた平川(神田川)放水路だが、その揚げ土をわざわざここまで運んで盛り土にする必要はなく、そもそも平川が開削された時分には、すでに愛宕山は存在していたという。
「放送博物館建て替えボーリング調査」で「愛宕山は天然の山」と立証
俵元昭『港区の歴史』によると、「愛宕山の地層についても、昭和43年(1968)に建て替えられたNHK放送博物館のボーリングで得られた土質柱状図から、沖積世(※約1万年前から現在)の天然の山であることが立証された」という。
10mの試錘岩芯(ボーリングコア)は、上から約2mが植物の腐蝕土を含むやや乱れたローム層、その下約6mは赤茶色のローム層で、その底部には小粒の軽石が混じり、さらに2mは灰色凝灰質の粘土、その下は薄茶色の細砂質であった。
細砂質というのは、東京層の最上部にあたり、古東京湾が干上ってきた頃に、古い多摩川などから流れてきた砂が堆積したものと考えられている。
そしてその上に箱根火山の火山灰が粘土化した粘土と、箱根火山に由来する軽石が積み重なり、さらにその上を、ほとんどが富士山の火山灰が変化してできた関東ローム層が覆っているのだという。
こうして、根強く主張され続けてきた「愛宕山の江戸城堀土築山説」はようやく否定されたのである。
眺望を誇ってきた愛宕山も、都市化の波で周囲をビルに囲まれてきたが、平成14年(2002)に42階のツインタワーが愛宕下に建設されて、南側の眺望が失われた。しかし、この都心の珍しい山を訪れる人は今も多く、花見の名所としても変わらぬ賑わいをみせている。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆歴史の舞台「愛宕山」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
寛永11年(1634 3代家光)丸亀藩士間垣平九郎が愛宕神社の男坂を騎馬で上り下りした話は、講談でお馴染みだが、以後、明治と大正にも2名が騎馬で上下している。
大正14年(1925)の陸軍参謀本部岩木利夫の場合は、隣接するNHK東京放送局の局員が目撃。「これから下段する」と臨時ニュースで報じたため見物人が集まった。
男坂の石段の数について、『和漢三才図』『江戸鹿の子』は83段、『江戸砂子』『江戸名所図会』は68段とする。そして『港区の文化財第8 新橋・愛宕山付近』は「実際に数えてみると86段(但し最下の一段)は舗装のため埋没であり、石の摩耗状態より見て、改造したものとは思われないから、他の数字はいつしか誤記されたものが転記されているのであろう」としている。
▲男坂の石段
万延元年(1860 14代家茂)の「桜田門外の変」では、水戸浪士は愛宕山に結集して、ここから大老井伊直弼の行列が外桜田の藩邸を出るのを確認してから出陣したという。
太平洋戦争敗戦後の昭和20年(1945)8月22日には、愛宕山にこもっていた結社「尊攘軍」の10名が手榴弾で爆死。27日には夫人2名があとを追って自刃している。
『江戸名所図会』『東京名所図会』に描かれた「愛宕山」
『江戸名所図会』
江戸の地誌『江戸名所図会』は、「愛宕神社」と「愛宕山からの眺望」について次のように記している。一部抜粋 ()は筆者(私)による注
「愛宕社総門」
京洛(京都)より移遷して武州(江戸)に座す 壇(祭壇・仏壇)を築き閣(楼閣)を構へ山丘に陟る
「山上 愛宕社権現本社の図」
晴日登臨す積水の東 江樹千里眼下に連なり 海雲一半城中に傍ふ 服部喬(服部南郭)
『東京名所図会』
一部抜粋 ()は筆者(私)による注
愛宕山
愛宕山ハ懸崖壁立して空を凌ぎ 六十八階の石段ハ畳々として雲表(雲の上)に聳ふ 頂上は平坦にして樹木繁茂し 夏日納涼に宜し
山上の眺望は都下の諸勝に冠たり
左右ハ皇城の雉堞櫓楼(石垣や櫓)を拝観し 第一銀行(第一国立銀行)の五層楼より墨水(隅田川)の岸頭佃の孤島(佃島)に至るまで一望の中に在り
前面ハ煉瓦通りより築地の居留地及び濱離宮を緑樹鬱葱の間に隠見し 又た近くの汽車の奔逸するより旧砲台(御台場跡)の鱗次(うろこのように並び連なること)せる大小船舶の往来を望み 遠くは房総の翠巒(緑色に見える連山)を眺め 品川より羽田及び神奈川横濱までも望むべし 東京第一の岡陵なりと云ふ
明治の「鉄道唱歌」「東海道唱歌」にうたわれた東京名所「愛宕山」
「汽笛一声新橋を~♪」で知られる「鉄道唱歌 東海道編」に歌われた愛宕山は、この曲の歌詞を替えた「東海道唱歌 汽車 東京~京都」にも登場するほどの東京名所だった。
明治33年(1900)発表の「鉄道唱歌 東海道編」(作詞・大和田建樹 作曲・多梅稚)は、「汽笛一声新橋を はや我が汽車ははなれたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として」と、眺望の名所愛宕山をうたっている。
一方、「東海道唱歌 汽車 東京~京都」の方は、明治42年(1909)に大和田建樹が「鉄道唱歌(東海道編)」の歌詞と曲名を変更して発表。「咲き立つ花の東京市 名残のこしてゆく汽車の 左の森は浜離宮 右なる塔は愛宕山」という歌詞で、明治22年(1889)に愛宕山に新築された5階建ての展望塔「愛宕館」がうたわれている。
愛宕神社の社務所は「愛宕山防護壁兼用ビルの最上階」
取材を終えて、愛宕山の裏手のなだらかな坂を下ると、ビルが山肌に食い込む壁のように建っていた。よく見ると、最上階がどうも社務所の辺りのようだ。
そこでもしやと思い、山上に引き返して松岡岑男宮司さんに尋ねると、推察どおり社務所はビルの最上階で、ビルは「山崩れを防ぐ防護壁の役目を兼ねている」とのことだった。意外な事実を知り、驚くとともに得した気分になったものだ。