
鳥取藩(因幡藩)譜代大名池田家は、32万石を誇る山陰道一の大藩である。そんな鳥取藩が藩御用商人からの借金を返済できず、江戸上屋敷の前で「門訴」を起こされ、路上では「駕籠訴」に見舞われている。
私はこの訴訟話を東京新聞連載「東京ふるさと歴史散歩」に[鳥取藩の巻 藩の御用職人が門訴と駕籠訴]と題して掲載しているので、最初にこの記事をもとに「門訴」と「駕籠訴」について説明する。
鳥取藩御用商人のように民事訴訟(公事訴訟)で江戸に来た人が利用する宿は、訴訟書類の代書・代行や法廷への付き添いをしたことから「公事宿」と呼ばれた。公事宿は江戸川柳の題材になり、馬喰町(中央区日本橋馬喰町)に多かったことから「国々の理屈を泊める馬喰町」(柳多留拾遺九)と詠まれている。そんな「公事宿」について、私は『国づくりと研修』連載「大江戸インフラ川柳」に[国々の理屈を泊める馬喰町]と題して掲載しているので、その記事で公事宿の説明する。
また吉良仇討ちを狙う赤穂浪士たちが公事宿に泊まり世間の目をごまかしてていた話も紹介する。
また、この話の簡単なあらすじをYouTubeショート動画に「松本こーせい 鳥取藩上屋敷の門訴と駕籠訴#shorts」と題してアップしたのでリンクする。
【参考文献】
『新編千代田区史通史編』千代田区 平成10年(1998)
『図表でみる江戸・東京の世界』江戸東京博物館編集 東京都文化財団発行 平成10年(1998)
『日本の社会史第五巻 裁判と規範』茎田佳寿子「内済と公事宿」岩波書店 1987年(昭和62)
日本歴史叢書新装版『参勤交代』丸山擁成 日本歴史学会編 吉川弘文館 平成19年(2007)
増補新訂『江戸町方の制度』石井良助編集 新人物往来社 1995年(平成7)
『刑事法と民事法』服藤弘司 創文社 昭和58年(1983)
『徳川幕府事典』竹内誠編 駕籠訴(山本英二)東京堂出版 2003年(平成15)
岩波講座『日本通史第13巻』岩波書店 1994年(平成6)
『中央区史上巻』中央区 昭和33年(1958)
鳥取藩御用職人が江戸屋敷門前などで「門訴」と「駕籠訴」決行
松本こーせい 東京新聞連載「東京ふるさと歴史散歩」[鳥取藩の巻 藩の御用職人が門訴と駕籠訴]
2008年(平成20)10月4日

江戸参勤御用代金等の支払い求める 鳥取藩は御用商人鍛冶屋長左衛門に対し、享保3年(1718年 8代吉宗)芝下屋敷の御用代金や、10年払い、13年(1728)の藩主池田吉泰の江戸参勤に伴う御用代金の支払いが滞っていた。そこで長左衛門は翌14年(1729)江戸参勤前の御用を断り、4月に家老に掛け合うが満足な回答がないのに憤慨、門訴と駕籠訴を行った。
駕籠訴の作法
駕籠訴には作法があり、訴願人は訴状を竹竿に挟み、「願います」と連呼して提出、供侍がこれを2回突き飛ばし、3回目に受理するのが一般的であった。 駕籠訴は大名行列見物の面前で行われるので、大名は無礼討ちにできず、訴状を受け取ると無視できないので、これを避けがちであった。
訴状は御供目付から藩主と家老に 「藩からの支払いが滞り、問屋への支払いができず取り引き停止にされた」「そのため生活は困窮し、衣類を売却した」と窮状を記した長左衛門の訴状は、御供目付が受け取り藩主と家老に渡された。
しかし、藩からの回答はなかったようで、次の登城日の28日にも駕籠訴を行い、藩はようやく支払いに応じた。借金総額を削り、4年払いにするという内容だったが、長左衛門はこれを了承している。
【補筆】鳥取藩の支払い額 『新編千代田区史通史編』千代田区 平成10年(1998) (※)は筆者(私)注 ようやく藩は支払いに応じた。長左衛門を不憫という思召とともに一二両(※)、返済分として一五〇両、残りは四年賦にするという内容であった。借金総額はいくぶん削減されたらしいが、長左衛門はこれを了承した(以上、鳥取藩政資料「江戸御目付日記」、通史資料編)。
※私が問い合わせた鳥取県立図書館からの回答「江戸御目付日記の内容」には、「代金の支払い112両と250両、残り分は4年賦にして返済」とあるので、『新編千代田区史通史編』の「一二両、一五〇両」は「112両、250両」の誤記と思われる。
鳥取県立図書館からのレファレンス回答

江戸末期創建の鳥取藩上屋敷表門「黒門」(国の重要文化財) 明治時代に東宮御所の正門として移築、のちに高松宮邸に引き継がれ、昭和29年(1954)台東区上野公園の東京国立博物館内に移設。創建時代は不明だが、屋根は入母屋造り、門の左右に向唐破風屋根の番所を備え、大名屋敷表門として最も格式が高い。(『たいとう名所図会 史跡説明板ガイドブック』台東区教育委員会)

鳥取藩上屋敷跡の帝国劇場(左端手前) 中央に日比谷濠 右側は皇居外苑

32万石鳥取藩財政困窮で「前代未曽有の超簡略参勤交代行列」
鳥取藩御用職人が支払いを求めた「門訴」「駕籠訴」には、参勤交代の費用も含まれ、諸大名は参勤費用を御用商人や豪商などから借金して工面した。
鳥取藩御用職人の門訴、駕籠訴は8代将軍吉宗の享保14年(1729)で、それから83年も後のことだの文化9年(1812 11代家斉)の「参勤費用」、同12年・文政4年(1821)の「前代未曾有の参勤行列超簡素化」、安政6年(1859 14代家茂)の「参勤交代の経路と日程」を参考までに紹介しよう。
「参勤交代の経路と日程 因幡・鳥取藩の例」 『図表でみる江戸・東京の世界』江戸東京博物館編集 東京都文化財団発行 平成10年(1998)
(※)は私の注
参勤交代の経路・日程と費用 1859年(安政6 ※13代家定)藩主池田慶徳 23歳 鳥取から江戸都合・21泊22日 行程・180里(約702km)1日平均・8.2里(※約32km)
参勤交代従者数幕府指針 1721年(享保6 ※8代吉宗) 20万石以上 馬上15ー20騎 足軽120ー130 中間人足250ー300 鳥取藩の従者数は未詳であるが、禄高が32万石なので、20万石以上の員数は保持していたものと考えられる。「御触書寛保集成」により作成
参勤交代の経費
1812年(文化9※家斉)帰国時
合計1957両 金額の両未満は四捨五入 『鳥取藩史』により作成
人足費(含雇足軽給金)847両 駄賃(馬代など)387両 諸品購入費(含修理代)492両 運賃(川渡賃・船賃など)134両 宿泊費(含昼食休憩代)97両
鳥取藩「前代未曾有」の参勤交代超簡略行列
日本歴史叢書新装版『参勤交代』丸山擁成 日本歴史学会編 吉川弘文館 平成19年(2007) (※)は筆者(私)
鳥取藩では正徳・享保年中と相次ぐ鳥取大火もあり、参勤随行者の省略、参勤猶予願いなどをして凌ぎ、その後も財政改革・倹約令・御用金賦課などの対策を講じた。
しかし、文化12年(1815※家斉)・文政4年(1821※家斉)の参勤交代行列の省略ぶりは前代未曽有といわれ、挟箱(※道中の衣類箱)4・馬1匹・御台傘なし・先供の徒士15人で、「拝見の人、秋腸(※うれえ悲しむ心)を含まざる者なし」という状況だったという(『鳥取藩史』『鳥取県史』)。
原則として受理されない駕籠訴・駈込訴などの「越訴」とは?
江戸時代には私人が役所に対する申告は「訴」「訴訟」と呼ばれ、裁判のための出訴や請願・陳情・願・届なども「訴・訴訟」に含まれていた。
『日本の社会史第五巻 裁判と規範』茎田佳寿子「内済と公事宿」岩波書店 1987年(平成9) 抜粋要約 (※)は筆者(私) 出羽国での山論訴訟の裁判の回避は民衆の側ではなく、判断を示せない権力の側にあり、民衆は裁判に期待できなくなった。このような現状のもとで裁判を求めるために用いられたのが、駕籠訴・駈込訴(※)などの越訴(えっそ)である。
※駈込訴は火急の際に手順を経ずに直接領主や幕閣などの屋敷に訴え出ること
越訴は所定の手続を経ないで訴えたり願い出をすること
『徳川幕府県治要略』によると、訴訟事件などで原告被告のうち郡代・代官、または当該官員の審理に対して不服を懐き、ひそかに江戸に上り、勘定奉行もしくは老中の登営の道をさえぎり、書面をささげ訴願することを越訴または駕籠訴というと規定している。
幕府は駕籠訴・駈込訴などの越訴は不受理を原則としたが、地頭やその所の支配人の非分私曲(※道理に当らぬこと・よこしまで不正なこと)については受理した(『公事方御定書』下巻、第四・六条)。これは、地方行政に対するチェック、または先例拘束性による法の固定化を防ぎ、下からの訴訟の道を開く安全弁の効力をもつ。
そこで公事訴訟人は、その解釈適用を拡大し、越訴行為を正当化し、訴訟技術として用いるようになる。越訴はその緊急性を示す、重要かつ有効な訴訟技術となる。
駈込訴(駈込願)の作法 緊急性考慮した黙許と処罰
増補新訂『江戸町方の制度』石井良助編集 新人物往来社 1995年(平成7) 『江戸町方の制度』の原題は『徳川制度』で、「朝野新聞」に明治25年(1892)から2年間連載。 抜粋要約 (※)は筆者(私)
火急を要し例規の手続きをなす暇なき場合になす 親兄弟等無実の罪で入牢、真実の犯罪者を発見。入牢の親兄弟等の仕置きが近日というような場合に奉行所へ駈込んで急訴をなす。この訴え方は公然許されたものではなく、黙許せられたたるものなり。
駈け込みをなすとき、足既に奉行所表門の閫(※敷居)を越えればシメタものなり。門番これを妨げず、願いは取り上げ本人には入牢申し付けられる。閫を跨がぬうちに門番に見咎められた時は、願いは取り上げられない定めなり。
但し、駈込願に出るのが余儀なき事情あるためならば、門番は見ぬ振りをし、閫を跨ぎたるを見て初めて飛び出し誰何(※呼び止めて問いただす)するのが内情なり。
奉行所の表門が昼夜明け放しなのは、これらのことあるにも因るなるべし。
公事宿「江戸宿公用留」に見る「門訴」「駕籠訴」の作法と処罰
「江戸宿公用留」とは
『刑事法と民事法』服藤弘司 創文社 昭和58年(1983) 「江戸宿公用留」はいつ誰が編纂したのか不明だが、『刑事法と民事法』は江戸の公事宿の紀伊国屋利八が、天保11年(1840)に自らの手控えとして編述したものと推定。掲載された史料の大半は、訴訟補助者としての公事宿が心得ておくべき訴訟人・公事宿に対する幕府の取締り法令や各種の訴訟文書類だとする。
「門訴」の作法と罰則

「江戸宿公用留」御門訴の事
一部抜粋要約 (※)は筆者(私)
御門訴と申す儀は、表御門番人へ願書認め、御取り用なき候はば、御駕籠訴をする料簡(※了見)であることをお含みおき下さい。それでは恐れ多いので、御奉行様へお取次ぎ下さるよう、お願い申し上げござ候。
※遠島(流罪)は島流し。江戸からは大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島の七島へ、京、大坂、 西国、中国からは薩摩、五島の島か隠岐、隠岐、天草郡へ送られ、家財は没収される(闕所)。
門訴者への罰則
10代将軍家治・12代家斉治世下の宝暦11年(1711)から天明7年(1787)までの幕府の法令集「御触書天明集成」には、明和八年(1771)五月「門訴致し候ものとも之内、宗門人別帳突合、筆頭之者遠嶋」とある。
【駕籠訴】の作法と罰則

「駕籠訴」の作法
増補新訂『江戸町方の制度』石井良助編集 新人物往来社 1995年(平成7) 「江戸宿公用留」御門訴・駈込訴訟の事
抜粋要約 (※)は筆者(私)
駕籠訴をする者は老中なり奉行(※)なりの通行を途に要し(※待ち伏せ)、願います 願いますと叫びて訴状を出すなり。差し出せば御供の者、先ずこれを突き飛ばすこと二回、三度目に訴状を収め、当人を縛するの習いなりという。
訴状は人々思い思いにて、竹竿の先に挟みて出す者もあれば、板などに挟んで出す者もあり。
※駕籠訴は駕籠で通行する「重き御役人」に行なうもので、乗物を許されたのは万石以上の大名、5000石以上の幕 府役人、高家、交代寄合、(略)などに限られた。(『徳川幕府事典』駕籠訴 山本英二)
駕籠訴者への罰則
『徳川幕府事典』竹内誠編 東京堂出版 2003年(平成15)
駕籠訴(山本英二) 抜粋要約 (※)は筆者(私)
駕籠訴は、提出者が御用宿(※公事宿)に宿泊中であれば宿で監視し、沙汰があるまで御用宿に控えるよう命じた。
駕籠訴の訴狀は、直ちに返却されずに、審理したうえで、筋違いの訴であることを理由に、正式の訴願手続きを経て訴えでるように申し渡された。
罪科を問われることはなく、急度叱り(※厳重に叱った上で放免)程度の軽刑ですまされた。
川柳に「国々の理屈を泊める馬喰町」と詠まれた「公事宿」とは
江戸に来た民事訴訟人の代行助言補佐をする「公事宿」
松本こーせい 全国建設研修センター『国づくりと研修123号』連載「大江戸インフラ川柳17」
平成2年(1999)
岩波講座『日本通史第13巻』岩波書店 1994年(平成6)
一部抜粋要約 (※)は筆者(私)
越訴(※おっそ えっそ)の代表的な訴訟形態である「駕籠訴」は、江戸幕府の当初から存在していたが、駕籠訴として一つの概念語を産むまでには至ってなかった。
※越訴 所定の手続を経ないで訴えまたは願い出ること
正徳(※1711~1716年 6代将軍家宣・7代家継)から享保期(※1716~1736年 8代吉宗)にかけて、「御駕籠附」「御駕籠に付相願」「御駕籠訴訟」という用語が使われ、宝暦郡上一揆(※)において初めて「駕籠訴」が使用される。
※宝暦郡上一揆 宝暦4年(1754)に郡上藩(岐阜県 八幡藩とも)で起きた年貢増反対などの百姓一揆
諸国から来た民事訴訟人用の宿屋で 訴訟行為の補佐も担った公事宿
江戸時代には民事訴訟のことを「公事訴訟」といった。地方から公事訴訟のため江戸に出向いた者たちが宿泊する旅人宿を「公事宿」と呼び、関東幕府直轄領の争いを処理する郡代屋敷近くの馬喰町に多く集まった。公事宿は単なる宿泊施設ではなく、訴訟関係書類の代書・代行や法廷付き添いなど現在の弁護士や行政書士的な役割を果たした。
郡代屋敷と旅人宿
JR総武線浅草橋駅前の江戸通りを南に進むと、神田川の浅草橋の向こう側に「浅草見附跡」の石碑がある。
江戸時代、浅草見附の西側には「郡代屋敷」があった。中央区が設置した「郡代屋敷跡」の説明板には次のように記されている。 ※は私による注記補足
「江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の屋敷があった場所です。関東郡代は天正十八年(一五九〇)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(一六四二)に関東郡代を命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(一六八八~一七〇四 ※五代綱吉)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。その役宅は初め江戸城常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(一六五七 ※4代家綱)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました」
そしてこの郡代屋敷の近くに公事宿ができていったのである
▼「郡代屋敷跡の説明板」写真・松本こーせい

家康の江戸入部以前から博労が住んでいた馬喰町一帯
馬喰町の沿革について、『江戸名所図会』は次のように記している。
「馬喰町三丁目の西北の裏通りにある馬場は、江戸でもっとも古く、慶長五年(1600)の関ケ原合戦のとき馬揃えあり、御馬工郎高木源兵衛がこれを預かり奉る。馬喰町の地名はこの由緒に由来する」
江戸時代の地図には、江戸通り沿いの馬喰町1丁目から3丁目にかけて、それぞれ東側に「旅人宿」、西側に「旅人宿約十五軒」「旅人宿約十七軒」「旅人宿約十三軒」と記されている。
▼『江戸名所図会』町名の由来になった馬場が中心に描かれている

馬喰町が旅館街になったのは、元禄以降(1688~ 5代綱吉)のことだ。全国の街道の起点である日本橋(中央区)は、江戸が開かれて以来の商工業の中心地であった。今の横山町・馬喰町は領民の紛争を裁く郡代屋敷があることから、訴訟で江戸に来る者たちが泊まる旅人宿が求められ、奥州街道の日本橋から小伝馬町、馬喰町にかけて宿ができていったのだ。
といっても、元禄頃までの馬喰町辺りの旅人宿は10軒程度だったが、元禄6年(1693)に回向院(墨田区両国)で信州(長野県)の善光寺の御開帳が行われた時、各地からやって来た参詣の人々を小伝馬町や馬喰町の宿では収容しきれなかった。これを契機に小伝馬町・馬喰町に次々と宿屋ができ、江戸を代表する旅人宿街になっていったのである。
川柳に詠まれた公事宿の代名詞「馬喰町」
江戸の旅人宿には公事宿と一般の旅人宿があった。現代の民事裁判にほぼ相当する裁判を、江戸時代には「出入筋」といい、刑事事件を「吟味筋」といった。「公事」とは民事裁判の出入筋で裁かれる訴訟のことで、「公事訴訟」「出入物」といった。主に地方から公事訴訟のため江戸に出向いた者の泊まる宿を「江戸宿」といい、その俗称が「公事宿」で「百姓宿」とも呼ばれた。なお公事宿のことを地方では「郷宿」と呼んだ。
江戸旅行ガイド本『金草鞋』の「馬喰町の賑わい」
文化10年(1813 11代家斉)から天保5年(1834)にかけて刊行された十返舎一九作、喜多川月麿画の『方言修行江戸見物金草鞋』は、馬喰町の旅人宿とその往来の賑わいを次のように記している。「花のお江戸の真中に 馬喰町・小伝馬町といふ所は 他国の人のいり込む所にて 昼夜をわかたず賑わひ ことさら 旅籠屋はいづれも大家にして(略) 日ましに繁昌し 旅籠屋 軒を並べて賑わひける」

平成21年(2009)1月
馬喰町には領民紛争を処理する郡代屋敷があったため、次第に糠屋や藁屋、苅屋が公事宿に転業、川柳などで「馬喰町」といえば、公事宿を意味するようになった。「諸国からふくれた顔は馬喰町」「国々の理屈を泊める馬喰町」「馬喰町諸国の理非の寄る所」といった具合だ。
江戸市中治安対策で「旅人宿町の制限」と「旅人宿組合の設置」
町奉行は市中の治安対策として旅人宿を小伝馬町三丁目、馬喰町一~三丁目の4か町に制限、その仲間組合を公認した。「小伝馬町・馬喰町組旅人宿」と「三〇軒組百姓宿」、麹町(千代田区)・本郷(文京区)ほか江戸各所に点在する「八二軒組百姓宿」が結成され、三組の江戸宿=公事宿が成立した。
小伝馬町・馬喰町組旅人宿は、品川、千住、板橋の各宿場に客引きの宿引人を出して、江戸見物などの一般旅行者や公事訴訟人を宿泊させた。三〇軒組百姓宿は郡代伊奈氏支配下の百姓を宿泊させ、指名して来る者だけを泊め、客引人を出すことは禁じられた。また八二軒組百姓宿は、非合法的な旅宿業務を行っていたのを公認したものだ。全面禁止にすると困窮者が出るという社会政策的見地から認めたもので、江戸各所に散在する代官・地頭用、訴訟公事用に関係して、江戸に出てきた縁故者だけを宿泊させた。
小伝馬町・馬喰町組旅人宿、三〇軒組百姓宿、八二軒組百姓宿は、奉行所最寄りの出火に消火出動する義務を負った。八二軒組百姓宿は評定所並びに公事方勘定奉行所へ、三〇軒組百姓宿は関東代官附本所牢屋敷へ出動した。
「訴訟人に宿と訴願手続き」提供し「裁判業務の公的機能」担う公事宿
江戸幕府の裁判機関 江戸と全国各地に裁判所
江戸時代の裁判機関裁判機関は江戸に「評定所」、寺社・町・勘定の「三奉行所」、「道中奉行」があり、全国各地に「遠国奉行」、「郡代」、「代官」などの裁判所があった。
幕府は領主に一定の裁判権を認め、所在地ではなく人別帳登録地で裁く人別帳登録地で裁く「属人主義」を原則とした。
地方からの訴訟人に「宿と訴願手続業務」提供 「裁判機関業務」担う「公事宿」
村の代表者である惣代たちは、年貢上納、支配大名・代官・諸役人の交代や訴願のために、また地元での紛争裁決を不服とする百姓・町人たちも、さらに上級の裁判機関の採決を求めて、江戸・大坂・京の三郡や城下町に出向いた。
このような地方からの訴訟人に宿と訴願手続業務を提供し、さらに裁判機関の業務の一旦を担って、公的機能を果たしたのが公事宿である。
裁判所の訴状を糺し依頼人の差添人として出廷する公事宿
裁判役所は提出された訴状が、訴訟要件を満たしているか審査する訴状糺 (目安糺)を行い、その後に正式の訴状「本目安」を提出させるが、公事宿がこの本目安の作成を行った。
裁判は原則として訴訟本人主義で代人(訴訟代理)は本人の親族、奉公人などにしか許されないが、公事宿の主人は「差添人」として、依頼人に付き添って白洲(法廷)に出廷し、訴訟行為の補佐をすることが認められていた。
吟味(審理)中に入牢を命じる強吟味になると、公事宿は休暇や日延べ願い、病気願いを提出した。
入牢した場合は牢内の依頼人との連絡にあたり、依頼人が牢から白洲に呼び出されると、訴訟関係者の待合所である「腰掛」で接触したりした。
公事宿は当事者間の調整のために法定外でも活動した。相手方との掛合(談合・談判)にも立ち会い、内済への譲歩を図った。幕府は内済を私的紛争解決の原則としていたので、公事宿もその意向に沿って活動。現在の弁護士や行政書士に類似した役割を担っていた。
しかし、刑事訴訟の「吟味筋」(被疑者を召喚吟味)では弁護士的活動は禁止され、予想した刑罰を依頼者に知らせても処罰された。吟味筋の未決拘留では、軽微な犯罪はなるべく入牢させず、公事宿に預けて監禁する「宿預」の方法もとられた。
「馬喰町公事宿の規模と繁昌」物語る「赤穂浪士11名の公事宿投宿」
馬喰町の公事宿の繁栄は、近隣の商店にも利益をもたらした。馬喰町の紙屋五郎兵衛では、訴訟書類の用紙が売れて、江戸の代表的大店の越後屋のように繁昌し、川柳に「五郎兵衛証文紙の売れる所」と詠まれた。
『中央区史上巻』によると、吉良邸討ち入りを目指す赤穂浪士は、「近江(滋賀県)の豪家が公儀へ訴願のため江戸に出向いたと称して、各自偽名を使って本町三丁目(中央区)南側の公事宿の裏座敷に宿泊して計画を練った」という。
大石主税ら11名が長逗留しても怪しまれなかったことからも、「公事宿の構えの大きさと、人の出入りの多さが察せられる」(『中央区史上巻』)。

▲公事宿の代名詞である「馬喰町の旅人宿街」は江戸通り(奥州道中)沿いにあった
写真・松本こーせい
公事宿は、御用状や触書、差紙(召喚状)などの公文書を町や村へ通達する業務も行っていた。こうした行政機構の下請け執行的機能から、公事宿は「御用宿」とも呼ばれた。
公事宿業務多忙で非合法の訴訟代理業者「公事師」と幕府の禁止措置
公事宿は業務の頻雑化にともない、主人だけでは遂行できなくなり、書記役として下代(手代)や見習いを雇った。そして相手方の吟味日や願書・届書などは下代や見習いにまかせた。下代は公事宿の代理として出廷するようになり、独立して事件に専従した。
こうして、非合法の訴訟代理業者「公事師」が活動する余地が生まれたため、幕府は繰り返し「触」を出して公事師を抑制・禁止した。
公事宿は裁判役所と訴訟人の周旋的役割を果たし、訴訟手続きが訴訟知識を有する公事宿の協力なしには運営できないほど専門化していった。そのため公事宿は裁判役所にとって必要不可欠の存在となった。公事宿は次第に幕府の裁判機構に組み込まれ、裁判役所の廷吏・執行吏として、中央と地方とを結ぶ公的側面を強めていった。
公事宿の「訴訟技術提供業移行」と「寛政の改革に伴う訴訟技術業」への転換
幕府の権威再建をめざした松平定信による、寛政元年(1787 11代家斉)から4年にかけての「寛政の改革」は、厳しい統制や倹約を強制。飯米代・宿料・飛脚賃などの協定や統制が強化されると、江戸の公事宿は粗末な施設になり、宿泊よりも訴訟技術を看板とするようになっていった。
最後にそんな江戸の公事宿を詠んだ川柳を紹介しよう。「国々の理屈を泊める馬喰町」(柳多留拾遺九)にやって来た訴訟人は、訴訟が始まると長期滞在を余儀なくされ、「麦飯の味も忘れた長い公事」(柳多留四)となるため、江戸見物、物見遊山で暇をつぶした。今日は五百羅漢寺(江東区)を見物し、明日は泉岳寺(港区)の赤穂四十七士の墓に参ろうかと「馬喰町五百の明日が四十七」(柳多留八)となる。そして例えば新田開発の所有権争いに勝訴すると「新田を手に入れて立つ馬喰町」(柳多留初)となるのであった。
そんな公事宿だが、明治2年(1869)に明治新政府は東京宿(江戸宿)=公事宿の法廷活動を禁止した。