鳥取藩(因幡藩)譜代大名池田家は、32万石を誇る山陰道一の大藩である。そんな鳥取藩が藩御用商人からの借金を返済できず、江戸上屋敷の前で「門訴」を起こされ、路上では「駕籠訴」に見舞われている。
私はこの訴訟話を東京新聞連載「東京ふるさと歴史散歩」に[鳥取藩の巻 藩の御用職人が門訴と駕籠訴]と題して掲載しているので、最初にこの記事をもとに「門訴」と「駕籠訴」について説明する。
鳥取藩御用商人のように民事訴訟(公事訴訟)で江戸に来た人が利用する宿は、訴訟書類の代書・代行や法廷への付き添いをしたことから「公事宿」と呼ばれた。公事宿は江戸川柳の題材になり、馬喰町に多かったことから「国々の理屈を泊める馬喰町」と詠まれている。そんな「公事宿」について、私は『国づくりと研修』連載「大江戸インフラ川柳」に[国々の理屈を泊める馬喰町]と題して書いているので、この記事で公事宿の説明する。
また、この話の簡単なあらすじをYouTubeショート動画に「松本こーせい 鳥取藩上屋敷の門訴と駕籠訴#shorts」と題してアップしたのでリンクする。
YouTubeショート「松本こーせい 鳥取藩上屋敷の門訴と駕籠訴#shorts」
鳥取藩御用職人が江戸屋敷門前などで「門訴」と「駕籠訴」決行
東京新聞連載「東京ふるさと歴史散歩」[鳥取藩の巻 藩の御用職人が門訴と駕籠訴]2008年(平成20)10月4日
江戸参勤御用代金等の支払い求める 鳥取藩は御用商人鍛冶屋長左衛門に対し、享保3年(1718年 8代将軍吉宗期)芝下屋敷の御用代金や、10年払い、13年(1728)の藩主池田吉泰の江戸参勤に伴う御用代金の支払いが滞っていた。
そこで長左衛門は翌14年(1729)江戸参勤前の御用を断り、4月に家老に掛け合うが満足な回答がないのに憤慨、門訴と駕籠訴を行った。
門訴の作法
8月11日、長左衛門は「藩主吉泰の氏名」と「未払い代金1235両」を明記した幟を上屋敷表門に立て掛け、菰の上に伏せて抗議の門訴をした。それでも解決への進展がないため、18日には吉泰が登城する行列を門前で待ち構え、駕籠訴を行い訴状を提出した。
駕籠訴の作法
駕籠訴には作法があり、訴願人は訴状を竹竿に挟み、「願います」と連呼して提出、供侍がこれを2回突き飛ばし、3回目に受理するのが一般的であった。 駕籠訴は大名行列見物の面前で行われるので、大名は無礼討ちにできず、訴状を受け取ると無視できないので、これを避けがちであった。
訴状は御供目付から藩主と家老に 「藩からの支払いが滞り、問屋への支払いができず取り引き停止にされた」「そのため生活は困窮し、衣類を売却した」と窮状を記した長左衛門の訴状は、御供目付が受け取り藩主と家老に渡された。
しかし、藩からの回答はなかったようで、次の登城日の28日にも駕籠訴を行い、藩はようやく支払いに応じた。借金総額を削り、4年払いにするという内容だったが、長左衛門はこれを了承している。
【補筆】鳥取藩の支払い額 『新編千代田区史通史編』千代田区 平成10年(1998) (※)は筆者(私)注 ようやく藩は支払いに応じた。長左衛門を不憫という思召とともに一二両(※)、返済分として一五〇両、残りは四年賦にするという内容であった。借金総額はいくぶん削減されたらしいが、長左衛門はこれを了承した(以上、鳥取藩政資料「江戸御目付日記」、通史資料編)。
※私が問い合わせた鳥取県立図書館からの回答「江戸御目付日記の内容」には、「代金の支払い112両と250両、残り分は4年賦にして返済」とあるので、『新編千代田区史通史編』の「一二両、一五〇両」は「112両、250両」の誤記と思われる。
鳥取県立図書館からのレファレンス回答
江戸末期創建の鳥取藩上屋敷表門「黒門」(国の重要文化財) 明治時代に東宮御所の正門として移築、のちに高松宮邸に引き継がれ、昭和29年(1954)台東区上野公園の東京国立博物館内に移設。創建時代は不明だが、屋根は入母屋造り、門の左右に向唐破風屋根の番所を備え、大名屋敷表門として最も格式が高い。(『たいとう名所図会 史跡説明板ガイドブック』台東区教育委員会)
鳥取藩上屋敷跡の帝国劇場(左端手前) 中央に日比谷濠 右側は皇居外苑
32万石鳥取藩財政困窮で「前代未曽有の超簡略参勤交代行列」
鳥取藩御用職人が支払いを求めた「門訴」「駕籠訴」には、参勤交代の費用も含まれ、諸大名は参勤費用を御用商人や豪商などから借金して工面した。
鳥取藩御用職人の門訴、駕籠訴は8代将軍吉宗の享保14年(1729)で、それから83年も後のことだが、11代家斉(いえなり)の文化9年(1812)の「参勤費用」、同12年・文政4年(1821)の「前代未曾有の参勤行列超簡素化」、14代家茂(いえもち)安政6年(1859)の「参勤交代の経路と日程」を参考までに紹介しよう。
「参勤交代の経路と日程 因幡・鳥取藩の例」 『図表でみる江戸・東京の世界』江戸東京博物館編集 東京都文化財団発行 平成10年(1998)
参勤交代の経路・日程と費用 1859年(安政6)藩主池田慶徳 23歳 鳥取から江戸都合・21泊22日 行程・180里(約702km)1日平均・8.2里(約32km)
参勤交代従者数幕府指針 1721年(享保6) 20万石以上 馬上15ー20騎 足軽120ー130 中間人足250ー300 鳥取藩の従者数は未詳であるが、禄高が32万石なので、20万石以上の員数は保持していたものと考えられる。「御触書寛保集成」により作成
参勤交代の経費
1812年(文化9)帰国時
合計1957両 金額の両未満は四捨五入 『鳥取藩史』により作成
人足費(含雇足軽給金)847両 駄賃(馬代など)387両 諸品購入費(含修理代)492両 運賃(川渡賃・船賃など)134両 宿泊費(含昼食休憩代)97両
鳥取藩「前代未曾有」の参勤交代超簡略行列
日本歴史叢書新装版『参勤交代』丸山擁成 日本歴史学会編 吉川弘文館 平成19年(2007) (※)は筆者(私)
鳥取藩では正徳・享保年中と相次ぐ鳥取大火もあり、参勤随行者の省略、参勤猶予願いなどをして凌ぎ、その後も財政改革・倹約令・御用金賦課などの対策を講じた。
しかし、文化12年(1815)・文政4年(1821)の参勤交代行列の省略ぶりは前代未曽有といわれ、挟箱(※道中の衣類箱)4・馬1匹・御台傘なし・先供の徒士15人で、「拝見の人、秋腸(※うれえ悲しむ心)を含まざる者なし」という状況だったという(『鳥取藩史』『鳥取県史』)。
原則として受理されない駕籠訴・駈込訴などの「越訴」とは?
江戸時代には私人が役所に対する申告は「訴」「訴訟」と呼ばれ、裁判のための出訴や請願・陳情・願・届なども「訴・訴訟」に含まれていた。
『日本の社会史第五巻 裁判と規範』茎田佳寿子「内済と公事宿」岩波書店 1987年(平成9) 抜粋要約 (※)は筆者(私) 出羽国での山論訴訟の裁判の回避は民衆の側ではなく、判断を示せない権力の側にあり、民衆は裁判に期待できなくなった。このような現状のもとで裁判を求めるために用いられたのが、駕籠訴・駈込訴(※)などの越訴(えっそ)である。
※駈込訴は火急の際に手順を経ずに直接領主や幕閣などの屋敷に訴え出ること
越訴は所定の手続を経ないで訴えたり願い出をすること
『徳川幕府県治要略』によると、訴訟事件などで原告被告のうち郡代・代官、または当該官員の審理に対して不服を懐き、ひそかに江戸に上り、勘定奉行もしくは老中の登営の道をさえぎり、書面をささげ訴願することを越訴または駕籠訴というと規定している。
幕府は駕籠訴・駈込訴などの越訴は不受理を原則としたが、地頭やその所の支配人の非分私曲(※道理に当らぬこと・よこしまで不正なこと)については受理した(『公事方御定書』下巻、第四・六条)。これは、地方行政に対するチェック、または先例拘束性による法の固定化を防ぎ、下からの訴訟の道を開く安全弁の効力をもつ。
そこで公事訴訟人は、その解釈適用を拡大し、越訴行為を正当化し、訴訟技術として用いるようになる。越訴はその緊急性を示す、重要かつ有効な訴訟技術となる。
駈込訴(駈込願)の作法 緊急性考慮した黙許と処罰
増補新訂『江戸町方の制度』石井良助編集 新人物往来社 1995年(平成7) 『江戸町方の制度』の原題は『徳川制度』で、『朝野新聞』に明治25年(1892)から2年間連載。 ※抜粋要約 (※)は筆者(私)
火急を要し例規の手続きをなす暇なき場合になす。 親兄弟等無実の罪で入牢、真実の犯罪者を発見。入牢の親兄弟等の仕置きが近日というような場合に奉行所へ駈込んで急訴をなす。この訴え方は公然許されたものではなく、黙許せられたたるものなり。
駈け込みをなすとき、足既に奉行所表門の閫(※敷居)を越えればシメタものなり。門番これを妨げず、願いは取り上げ本人には入牢申し付けられる。閫を跨がぬうちに門番に見咎められた時は、願いは取り上げられない定めなり。
但し、駈込願に出るのが余儀なき事情あるためならば、門番は見ぬ振りをし、閫を跨ぎたるを見て初めて飛び出し誰何(※呼び止めて問いただす)するのが内情なり。
奉行所の表門が昼夜明け放しなのは、これらのことあるにも因るなるべし。
公事宿「江戸宿公用留」に見る「門訴」「駕籠訴」の作法と処罰
「江戸宿公用留」とは
『刑事法と民事法』服藤弘司 創文社 昭和58年(1983) 「江戸宿公用留」はいつ誰が編纂したのか不明だが、『刑事法と民事法』は江戸の公事宿の紀伊国屋利八が、天保11年(1840)に自らの手控えとして編述したものと推定。掲載された史料の大半は、訴訟補助者としての公事宿が心得ておくべき訴訟人・公事宿に対する幕府の取締り法令や各種の訴訟文書類だとする。
「門訴」の作法と罰則
「江戸宿公用留」御門訴の事
一部抜粋要約 (※)は筆者(私)
御門訴と申す儀は、表御門番人へ願書認め、御取り用なき候はば、御駕籠訴をする料簡(※了見)であることをお含みおき下さい。それでは恐れ多いので、御奉行様へお取次ぎ下さるよう、お願い申し上げござ候。
門訴者への罰則
10代将軍家治・12代家斉治世下の宝暦11年(1711)から天明7年(1787)までの幕府の法令集「御触書天明集成」には、明和八年(1771)五月「門訴致し候ものとも之内、宗門人別帳突合、筆頭之者遠嶋」(※)とある。
※遠島(流罪)は島流し。江戸からは大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島の七島へ、京、大坂、 西国、中国からは薩摩、五島の島か隠岐、隠岐、天草郡へ送られ、家財は没収される(闕所)。
【駕籠訴】の作法と罰則
岩波講座『日本通史第13巻』岩波書店 1994年(平成6)
一部抜粋要約 (※)は筆者(私)
越訴(※えっそ)の代表的な訴訟形態である「駕籠訴」は、江戸幕府の当初から存在していたが、駕籠訴として一つの概念語を産むまでには至ってなかった。
※越訴 所定の手続を経ないで訴えまたは願い出ること
正徳(※1711~1716年 6代将軍家宣・7代家継)から享保期(※1716~1736年 8代吉宗)にかけて、「御駕籠附」「御駕籠に付相願」「御駕籠訴訟」という用語が使われ、宝暦郡上一揆(※)において初めて「駕籠訴」が使用される。
※宝暦郡上一揆 宝暦4年(1754)に郡上藩(岐阜県 八幡藩とも)で起きた年貢増反対などの百姓一揆
「駕籠訴」の作法
増補新訂『江戸町方の制度』石井良助編集 新人物往来社 1995年(平成7) 「江戸宿公用留」御門訴・駈込訴訟の事 抜粋要約 (※)は筆者(私)
駕籠訴をする者は老中なり奉行(※)なりの通行を途に要し(※待ち伏せ)、願います 願いますと叫びて訴状を出すなり。差し出せば御供の者、先ずこれを突き飛ばすこと二回、三度目に訴状を収め、当人を縛するの習いなりという。
訴状は人々思い思いにて、竹竿の先に挟みて出す者もあれば、板などに挟んで出す者もあり。
※駕籠訴は駕籠で通行する「重き御役人」に行なうもので、乗物を許されたのは万石以上の大名、5000石以上の 幕府役人、高家、交代寄合、(略)などに限られた。(『徳川幕府事典』駕籠訴 山本英二)
駕籠訴者への罰則
『徳川幕府事典』竹内誠編 東京堂出版 2003年(平成15)
駕籠訴(山本英二) 抜粋要約 (※)は筆者(私)
駕籠訴は、提出者が御用宿(※公事宿)に宿泊中であれば宿で監視し、沙汰があるまで御用宿に控えるよう命じた。
駕籠訴の訴狀は、直ちに返却されずに、審理したうえで、筋違いの訴であることを理由に、正式の訴願手続きを経て訴えでるように申し渡された。
罪科を問われることはなく、急度叱り(※厳重に叱った上で放免)程度の軽刑ですまされた。
川柳「国々の理屈を停める馬喰町」の訴訟人宿「公事宿」とは?
江戸に来た民事訴訟人の代行助言補佐をする「公事宿」
全国建設研修センター『国づくりと研修123号』連載「大江戸インフラ川柳」平成2年(1999)