今回は江戸時代の派遣労働者である「武家の派遣奉公人」について紹介する。彼らの仕事は中間(足軽と小者の中間 折助)・下女や小者(雑務役の軽輩 使い走り)、駕籠人足(陸尺 六尺)などにとどまらず、下級武士身分の徒士(供先の警備)・若党(従者)・足軽(兵卒)にまで及んでいた。
そんな派遣武家奉公人である幕閣・大名19家の「陸尺(六尺)」が、幕府公認の芝居小屋である「市村座」でタダ見を断られて破壊、御三家水戸藩の「中間(折助)」が湯島天神境内で興行の芝居小屋でタダ見を断られて破壊した話を紹介。そんな不埒な派遣奉公人たちを武家が使わざるを得なかった理由と武家が責任を負わない派遣システムを説明する。
江戸時代の芝居小屋には幕府の許可を得た常設小屋での「大芝居」と、それ以外の場所で一時的に許可を得て寺社境内地などに小屋掛けする宮地芝居の「小芝居」とがあった。そこで、先日亡くなった唐十郎さんの紅テント公演が、江戸時代の宮地芝居である花園神社三光院芝居の現代版を意図したものであったことも合わせて紹介する。
私は令和元年(2019)に宮崎県立図書館「宮崎県文化講座」で「散歩考古学 江戸の中の日向諸藩」を講演、その中で「大名屋敷支える派遣の渡り奉公人」についても取り上げ、「陸尺の市村座破壊事件」を紹介している。そこで今回のブログでは、講演をおさめた『令和元年度宮崎県文化講座研究紀要46輯』「江戸の中の日向諸藩」を要約してお伝えする。
『令和元年度宮崎県文化講座研究紀要46輯』の全文はこちらからどうぞ
https://www2.lib.pref.miyazaki.lg.jp/?action=common_download_main&upload_id=3474
また当ブログの予告編的【YouTubeショート動画松本こーせい】に「派遣武家奉公人#shorts」をアップしたのでリンクする。
【参考文献】
『大名行列を解剖する 江戸の人材派遣』根岸茂夫 吉川弘文館 2009年(平成21)
日本歴史叢書新装版『参勤交代』丸山雍成 日本歴史学会編 吉川弘文館 2007年(平成19)
『描かれた行列ー武士・異国・祭礼』久留島浩編 東京大学出版会 2015年(平成27)
江戸時代選書8『江戸城』田村栄太郎 雄山閣出版 2003年(平成15)
『行列にみる近世』国立歴史民俗博物館 編集・刊行 2012年(平成24)
岩波文庫『増補幕末百話』篠田鉱造 岩波書店 1997年(平成9)
ちくま学芸文庫『江戸巷談 藤岡屋ばなし 続集』鈴木棠三 筑摩書房 2003年(平成15)
「幕閣・大名19家の派遣駕籠舁」がタダ見拒否の「市村座を破壊」
京都所司代延岡藩牧野家らの派遣陸尺が市村座打ち壊し
寛保2年(1742 8代将軍吉宗)6月13日、松本藩(長野県)の派遣奉公人で武家屋敷の駕籠人足である陸尺(六尺)2人が、市村座で芝居をタダ見しようとして断られ口論となった。ちなみに、陸尺の語源は、12尺(2間 約3m60cm)の駕籠の棒を二人で担ぐから「六尺(陸尺)」だとされる。
この松本藩の陸尺2人はいったん帰ったが、さらに20人ほどで押し掛け大喧嘩になった。陸尺頭が武家屋敷の陸尺に一家当たり1、2人の動員をかけ、16日には180人程の陸尺が襲撃。刀を降りまわして芝居小屋を破壊、このため市村座は9月まで休業を余儀なくされた。幕府は陸尺を抱える大名や幕臣に陸尺の差し出しを厳命、町奉行が彼らを捕らえた。
大名家陸尺と市村座、陸尺周旋業への処罰
この事件の処罰は7月にあり、陸尺側は陸尺頭ら7人が遠島、重追放3人、中追放14人、軽追放8人、江戸払が23人で、処罰は19家の大名、幕閣(幕府最高首脳部)の老中・若年寄・京都所司代の陸尺に及んだ。
その一人が延岡藩(宮崎県)牧野貞通で、事件当時は寺社奉行から京都所司代に転任したばかりだった。京都所司代は老中に次ぐ重職で、京都護衛、禁中・公家や西国大名の監察、京都守護諸役人の統率を担った。幕閣の陸尺は抱え主の権威をかさに、日頃から横柄、横暴な言動を重ねていて、この事件もその一例であった。
幕府の処分は市村座にも及んだ。軽追放が札売りら10人、過料が木戸番17人、座元の市村宇左衛門は戸〆となった。幕府は陸尺斡旋業の駕籠宿が事件を放置していたとして戒告とし、駕籠宿を奉公人周旋屋の「人宿組合」に編入した。そして陸尺が団結してそれ以外の陸尺をいじめていたので、これを禁じ人宿に注意を促した。また、陸尺の給金が高額であるとして、値下げを命じた。
[江戸時代の処罰の内容]
遠島(財産没収のうえ伊豆・隠岐・壱岐などへの流刑)
重追放(財産没収のうえ犯罪地・居住国・江戸10里四方への居住禁止)
中追放(財産没収のうえ犯罪地・居住国および武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・下野・甲斐・駿河への入国禁止、または江戸10里四方外への追放)
軽追放(居住国・犯罪国のほか、江戸10里四方・京・大坂・東海道筋・日光道中への立ち入り禁止)
江戸払い(江戸市内居住を禁じ、品川・板橋・千住・四谷宿の大木戸、および本所・深川の外に追放)
過料(金銭賠償)
戸〆(釘で門戸を封鎖)
官許常設小屋興行「大芝居」と寺社地で一時的興行「宮地芝居」
江戸時代の芝居興行には、幕府の許可を得た常設小屋での「大芝居」と、それ以外の場所で一時的に許可を得て小屋掛けする「小芝居」とがあった。
大芝居は江戸では世襲制の座元が許可を得て、常打ち小屋をもって、興行一切の責任を負った。小屋の入口には、芝居興行の官許の印である「櫓」を組んだ。
▲松本こーせい画「なぞのスポット東京不思議発見」宮地芝居
小芝居の中で寺社地で興行するものを「宮地芝居・宮芝居」といい、幕末になると盛り場でも行われるようになっていった。
前項で紹介した「市村座」は「大芝居」で、本項の「湯島天神境内の芝居小屋」は小芝居の「宮地芝居・宮芝居」である。
唐十郎「紅テント」は「江戸時代の花園神社小屋掛け」の現代版
ちなみに、先日亡くなった唐十郎さんの「紅テント」公演は、江戸時代の小屋掛け興行である「新宿花園神社三光院芝居の現代版」であった。
▲画・松本こーせい「なぞのスポット東京不思議発見」宮地芝居
私はこの話を『土木施工』(2002年8月号)連載「なぞのスポット東京不思議発見」に「宮地芝居?唐十郎の紅テント公演は 江戸時代の小屋掛け興行花園神社三光院芝居の現代版」と題して、その経緯を次のように記している(一部抜粋)。
「本邦初のテント公演になった状況劇場(現在は唐組)の紅テント公演は、昭和42年(1967)8月5日に花園神社境内で行われた。演目は『腰巻お仙、月髷お仙、義理人情いろはにほへと篇』だったが、当初は『月笛お仙』と題していた。新宿の寺社に境内使用を申し入れたなかで、唯一許可してくれた花園神社に対して、唐十郎が気をつかった」(片山文彦宮司)のだという。
私も花園神社での紅テント公演を観劇したことがあり、小空間のテント芝居にワクワクしたものだ。
「御三家水戸藩中間」がタダ見拒否「湯島天神境内の芝居小屋破壊」
鈴木棠三『江戸巷談 藤岡屋ばなし 続集』によると、天保11年(1840 12代家慶)6月9日、湯島天神の境内で興行中の芝居を、御三家水戸家の中間(折助)が襲撃、芝居小屋を破壊して双方に負傷者を出す事件が起きている。
水戸家の中間二人がタダ見をしようとしたが、小屋の者に阻止されて口論となり、やむなく屋敷へ帰った。そしてほかの中間たちに「タダ見をしようとしたこと」は伏せて、芝居小屋の者と喧嘩になったと告げた。そのため他の中間たちが憤慨、仕返ししようと3、40人で繰り出したのだ。
▲『江戸名所図会』「湯島天満宮」(湯島天神)
▲湯島天神 撮影・松本こーせい
中間たちが湯島切通し前に差しかかった時、加賀藩前田家上屋敷の辻番が不穏な連中だと判断して通行を阻止した。そこで中間たちは回り道をして湯島天神へ向かい、境内で興行中の芝居小屋の破壊に及んだのである。
中間と芝居小屋の双方に負傷者で御家人らが仲裁に
この乱闘で双方に負傷者が出たが、芝居小屋の者が両眼の間に鳶口を叩き込まれ、手と腹部にも傷を負い重体となった。
喧嘩には仲裁が付きもので、湯島三組町辺に住む御家人の伝五郎と、本郷竹町の町人安五郎が中人(仲人※仲裁人)となって、和議の交渉中だという。
「武家屋敷」が「不埒で博奕好きな渡り奉公人」を使う理由とは?
「軍役義務としての従者」を経費削減のため「奉公人周旋屋」から調達
100石以上の大名旗本は禄高に見合う軍役として、1万石当たり200~250人の従者(戦闘要員)を用意する義務を負ったが、軍事動員のない平和な時代になると、経費削減のため人員を減らした。
しかし「参勤交代」には従者数が、「江戸城登城」など正式の外出には、御供の人数(供連・供揃)が規定されているため、奉公人周旋屋の「人宿」から派遣や臨時雇いの「渡り奉公人・渡り者」を雇って対応したのである。
「下男・下女」「下級武士の徒士や若党」役にも渡り奉公人を使用
渡り奉公人の仕事は、下級武士の徒士(供先の警備)・若党(従者)・足軽(兵卒)、奉公人(召使)の陸尺(六尺 駕籠人足)・中間(足軽と小者[使い走り]の中間に位置する 折助ともいう)、その下の小者(使い走り)・下男・下女に及んだ。
雇用期間は大名の江戸在府中で、一季(1年)抱えと半季(半年)抱えがあり、臨時雇いには日雇い・月雇いの日用取があった。
禄高、身分や地位により異なる「従者数」
登城の供連は1万石以上の大名は、分限(禄高、身分や地位)に応じて侍4~5人、草履取1人、着替えや品物入れの挟箱持1人、陸尺4人、雨天時は傘持1人の計10~11人である。
位階が四品(四位)および10万石以上の大名は侍6人、草履取1人、挟箱持2人、陸尺4人、雨天時は傘持1人の計13人となる。
「行列警備役の徒士」を含む供連の大半は「渡り奉公人」
行列の供連をつとめるのは下級武士の徒士・若党・足軽と奉公人の陸尺・中間(折助)などだが、警備役の徒士を含む供連の大半は渡り奉公人であった。
▼元旦諸侯登城之図『江戸名所図会』
右から挟箱持・供侍・御立傘・供侍・長柄槍・御番方・御供頭・陸尺・駕籠(乗物)・駕籠脇など
▼『方言修行江戸見物 金草鞋 』
行列先頭より挟箱持・供侍・供侍・長柄槍
武家屋敷の「中間部屋」で博奕、喧嘩、失踪する「渡り中間」
幕末の古老の話を聞きとりした篠田鉱造『増補幕末百話』には、土佐藩や秋田藩の江戸屋敷の派遣奉公人折助(※中間、足軽と小者の中間)について述懐した「江戸名物折助」が収められている。
それによると、七、八十人から百人ほどの折助が一軒家に居住。ここを大部屋といい、博奕の親分みたいな「部屋頭」がいて、その妻は「姐さん」と呼ばれた。部屋頭の配下に「小頭」、「役割」と称される者がいて折助を支配した。
「折助(中間)と乞食は三日もすると忘れられない(やめられない)」と粋がっていたが、彼らは中間部屋の頭に給金をピンハネされ、新参者は中間部屋に入る際に金銭を取られる境遇でもあった。
屋敷では博奕を黙認していたが、その理由は禁止すると他の屋敷の博奕に出かけて、供連れに間に合わなくなるからだという。
「中間部屋での博奕を成敗」した旗本 幕府は負傷中間を「死罪」に そんな中間部屋での博奕に対して、見て見ぬ振りをせずに成敗した幕臣(将軍直属の家臣)がいた。小十人組(将軍行列の先導役)の父子が、他の屋敷の中間も加わって博奕をしている中間部屋に踏み込んで斬り付け、多数の死者と逮捕者を出した。
幕府は生存者を死罪にし、今回のような場合は斬り捨てるよう幕臣に命じた。
武家ではなく「斡旋業者」が負う「渡り奉公人の責任」
荻生徂徠が将軍吉宗に建策した「渡り奉公人の利点」
儒学者の荻生徂徠は5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保に仕え、8代将軍吉宗の時には幕政に対する意見を求められ、享保10年(1725)か12年頃に「政談」と題する次のような意見書を吉宗に建策している。
徂徠は「奉公人たちの博奕と欠落、人宿の存在が奉公人の質の悪化につながる」と指摘する。 しかしその一方で、「出替り奉公人(一季抱え)は質が悪くても1年間なので武家は我慢できる」「都合の悪いことがあれば、人宿(斡旋業者)や請人(身元保証人)に返せば費用もかからない」「毎年奉公人を替えると新たな気分になる」「出戻り奉公人の経験者は世慣れして、供揃えに使うには便利だ」としている。
「渡り奉公人に関する責任」は人宿や請人の責任で名主の不行き届き
渡り奉公人についての責任は、人宿(斡旋業者)や請人(身元保証人)が負い、人宿のある町内の名主(町の諸事務担当の町役で身分は町人)・家持(家屋の所有者)の取締り不行き届きとされた。 渡り奉公人の給金は武家が前渡しするが、欠落した際には、人宿や請人が武家に返金。武家は渡り奉公人に不都合があった場合は、人宿に戻して済ませた。
このように渡り奉公人に関する責任は斡旋者が負い、武家は負わないというのが幕府の方針であった。
「他家行列との競い合いに役立つ」渡り奉公人の経験と場慣れ
渡り奉公人は武家の権威を無視する厄介者だが、経験豊富で場慣れしていた。江戸城登城時の大手門・内桜田門や老中屋敷訪問時の門前は大混雑するため、他家行列と競い合いをする際には、彼らの経験と機敏さが役に立ったのである。
▲哥川豊春『御大名行列之図』永寿堂西村屋 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1307403