「感応寺」は11代将軍徳川家斉が、寵愛する側室お美代の方とその父日啓の願いを叶えて建立を許可した寺だ。感応寺には大奥から寄進や供養の品々が長持で届けられたが、その長持の中に感応寺で僧と密会する奥女中が潜んでいることが発覚した。「長持生人形事件」である。
幕府はこの醜聞を隠し、「今般思し召し有り」として感応寺を廃寺にした。


私はこの「将軍家斉を手玉にとった側室と父である妖僧による感応寺創建」を『土木施工』(山海堂)連載「なぞのスポット東京不思議発見」に掲載、これを大幅に加筆して単行本『なぞのスポット東京不思議発見』(山海堂)に収録しているので、この単行本記事で「感応寺の創建から破却」までの経緯を説明する。
この事件話の拠典とされる大谷木忠醇(号・醇堂)「燈前一睡夢」と、これを引用して世に広めた三田村鳶魚「長持の中の女人形・脇坂安董の暴死」も紹介する。
また、この話の簡単なあらすじをYouTubeショート動画「松本こーせい 大奥女中と僧の密会で廃寺の感応寺#shorts」と題してアップしたのでリンクする。
YouTubeショート松本こーせい「大奥女中と僧の密会で廃寺の感応寺#shorts」
幕府は「大奥女中と僧の密会」隠して「感応寺」を取り潰し

松本こーせい『なぞのスポット東京不思議』山海堂 平成15年(2003)










「長持生人形事件」の拠典「燈前一睡夢」とは
菊池勇夫「雑司ヶ谷感応寺の性格と地域住民」 豊島区立郷土資料館研究紀要第一号『生活と文化』1985年9月 ※一部抜粋 文中の太字化は筆者(私)による
「長持の生人形」の唯一ともいえる拠典は、大谷木忠醇(号・醇堂)の「燈前一睡夢」であろう。「燈前一睡夢」は、醇堂(天保9年ー明治30年)が水戸御主殿(家斉子峰姫)に仕えていた祖父から聞書を主とし、三田村鳶魚の日記によれば、明治25年(1892)に、「天保旧聞を追録」したものという。
祖父の記憶に頼るだけに、感応寺の実情をどの程度に正確に伝えているかやや難点がある。
「燈前一睡夢」が三田村鳶魚の紹介するところとなって、家斉をめぐる大奥腐敗を示す材料として、あまねく知られるようになったといってよいであろう。感応寺のイメージの定着には鳶魚の役割が大きい。
三田村鳶魚「帝国大学赤門由来 長持の中の女人形・脇坂安董の暴死」
『日本及日本人』大正8年(1919)4月春季臨時増刊号 鳶魚江戸文庫16「大名生活の内秘」中公文庫 平成9年(1997) ※一部抜粋 文中の太字化と(※)は筆者(私)による
長持の中の女人形 (※大奥の)女中等は、御代参のほかに、自分の参詣を願い、その上に、衣類へ加持を頼むとか、寄進をするとかいって、しばしば長持を感応寺へ搬ぶ。その長持を、(※西丸老中脇坂安董に命じられた)大目付が審検すると、生人形の女が出た。これは穏便主義の役人言葉であろう。
正徳の昔(※6代将軍家宣・7代家継期)に、中村大吉が長持の中に潜んで、尾州家の奥へ出入りしたというが、三浦三崎の俗謡の偲ばれるこの長持、(※長持生人形事件は)女の方から忍んで通ったとみえる。
脇坂安董の暴死
大御所様(※家斉)の御中陰(※四十九日)が済まない天保12年2月7日(表向きは24日)に西丸老中脇坂安董が頓死した。
『燈前一睡夢』には、大御所様残してゆかれた寵臣が、毒殺したのだ、と書いてある。
彼等は最後の闇中飛躍に際して邪魔払いの一服を進上したのであろう。大御所様の薨後(※死後)には、西丸の諸役人は、一同に閑職につかなければならぬ。栄華に慣れ、驕奢に染まった連中だけに、急に閑散の生涯に移るのが著しい苦痛であった(略)