宇江佐真理の小説「薄氷」の「日向某藩の人買い船」とは?男女児童をさらって生涯奴隷に!

人買い船

宇江佐真理『髪結い伊三次捕物余話 雨を見たか』(文春文庫)を読んでいたら、江戸で13人の子供たちがかどわかされ、日向地方(宮崎県)の藩に労働力として売られる寸前に救出されるという話薄氷うすらひがあった。

私は平成21年(2009)、宮崎日日新聞連載「宮崎不思議発見」「日向飫肥おび藩の人買い船事件」を掲載、これを加筆して『みやざき仰天話 松本こーせいの宮崎歴史発見』(鉱脈社 2011年)に収録。私が脚本・ロケ・出演するMRT(宮崎放送)テレビ「松本こーせいの宮崎歴史発見」(「アッパレ! miyazaki」内のコーナ番組)でも放送している。
また、この話の簡単なあらすじをYouTubeショート動画「松本こーせい 日向某藩の人買い船#shorts」と題してアップしたのでリンクする。

「薄氷」はフィクションで、日向地方の藩の名は明記されていない。だが日向国では「飫肥藩の人買い船」が常態化して悪評がたっており、「薄氷」は同藩の事例をモデルにしたたものと思われる。そこで江戸時代の記録をもとに、飫肥藩の人買い(奴隷買い)実例を紹介、その背景と幕府の処分を説明する。

YouTubeショート動画「松本こーせい 日向某藩の人買い船#shorts」

「松本こーせい 日向某藩の人買い船#shorts」

江戸で風聞「日向の人買い船にさらわれるぞ!」

『髪結い伊三次捕物余話 薄氷』宇江佐真理 文春文庫  平成21年(2009)

大掛かりな子供のかどわかしは日向地方の藩が関係しているようだった。藩ぐるみで子供を攫い、まずは大坂へ向かい、そこから船を乗り換えて日向まで連れて行くという。

男の子は藩内の労働力として、また女の子は成長した後、遊郭に送り込むという目的だった。大名の処分は幕府に委ねられるが、この事件の後、江戸では夕方になっても家に戻らない子供に対し、「日向の人買い船に連れて行かれるよ」と、脅すのがもっぱらになった。

詳しい藩の名は伊三次に知らされなかったが、日向地方の人々にとっては、甚だ不名誉な風聞だった。

日向細島港で発覚「飫肥藩大坂蔵屋敷から国元へ搬送」

『みやざき仰天話 松本こーせいの宮崎歴史発見』鉱脈社 平成23年(2011)

日向人買い船
農村重税で間引き横行
日向人買い船
労働力不足で人買い
日向人買い船
寄港で陣屋に助け求む
日向人買い船
幕府で悪名の日向人買い
飫肥藩主分家事件
飫肥藩分家身代わり?重罰事件

「不正上方抱え下し」と「幕府の規制」

『宮崎県史通史編近世上』宮崎県 平成12年(2000)

上方抱え下し事件 ※以下、一部抜粋 本文太字化は筆者(私)

かかくだしとは京都・大坂において西国諸国の蔵屋敷侍・蔵元町人・船宿を介し召し抱えられた奉公人のことで、国元の武家や町家などに送られた。

九州では、飫肥おびをはじめとして福岡藩佐賀藩対馬つしま平戸ひらど五島ごとう(いずれも長崎県)、肥後宇土うど(熊本県)、豊後府内ふない(大分県)、鹿児島藩などで確認できる。

飫肥藩においては、江戸時代中期以降、(略)非合法な手段で、労働力確保が行われており、(略)

飫肥藩以外でも抱え下しを利用した生涯奉公が横行して、享保四年(一七一九)三月に平戸大村おおむら(長崎県)・五島の諸藩が、大坂の口入れ屋に年季を偽ったり年季を設定せずに抱え下しをさせ、一生涯奉公をさせていることが表沙汰になった。

しかし幕府の規制不十分で、「大坂町奉行へ申し渡し候書付」(『日本財政経済史料』八巻)によると、本国(出身地)が確認できない奉公人は、受け入れ地の蔵屋敷留守居るすいの証文を添えて、口入れ屋が奉公人を大坂奉行所に連れて出頭し、奉公人が奉公を希望することを確認するのみで許可された。(略)

このようななかで発覚したのが細島ほそしま(日向市)に入港した飫肥藩船による「不正抱え下し事件」であった。

文政13年「お伊勢まいり」流行 飫肥藩と盗賊団の合法売買僞装 

『宮崎県近世社会経済史』小寺鉄之助 宮崎県史料編纂会 昭和33年(1958)

「飫肥人買船一件実録」 ※以下、一部抜粋 本文太字化は筆者(私)

この春御蔭参り流行

 文政十三年(※1830)は春から伊勢大神宮へ「御かげ参り」が流行し、諸国諸人の参宮が夥しかった。(略)山田奉行(牧野長門守)より江戸に達した御届にも、閏三月中の参宮者二百二十八万余とある。

子供の抜参り

 元禄宝永珍話巻三には宝永二年(※1705)閏四月の時のことを録して、「俗に、おかげ参りという。閏四月上旬 のころ洛中童男童女七、八歳より十四歳に至り、貧富を論ぜず抜け参りを致すこと夥し云々、妻子従僕その主にいとまを乞わず家を出て参詣す」とあり、この俗を称して「抜参り」といった。                                                                                  
                     
道頓堀銭屋武平

 諸街道が大混乱、大雑鬧だいざっとうの渦を巻いている時、そこへ紛れて網を張ったのが誘拐団一味である。飫肥人買船に江戸の子供が多かったことも、この事情による。その頭領大阪道頓堀銭屋武平と云って、予め飫肥藩役人と通じ、勾引かどわかした子供の仮親の立場で次の如く証文売買していた。

(日向国那珂郡飫肥人買船実録原文)                                                                               
大坂ニて飫肥役人より、道頓堀銭屋武平と申すものへ相談あり、武平より書付一通相認め飫肥役人え渡し申候。その訳ハ、十五人の子供何れもみなしごニて親類もこれなきニ付、武平拾ひ取り候て飫肥え奉公ニ差し出し候と、申す趣旨ニ御座候                                                                          

 この一事を以て万事とは云えぬが、大体に於て常習手段であったと考えられる。こうしてうけ人さえあれば合法と認められ、天網を掠めて人の売買はまことに簡単であった。

誘拐されて売られた子供は「生涯奴隷」身分に

『宮崎県近世社会経済史』小寺鉄之助 宮崎県史料編纂会 昭和33年(1958)

飫肥人買船一件実録※以下、一部抜粋 本文太字化は筆者(私)

奴隷の行く末

 売飛ばされた者は生涯奴隷であった。日向なればは山子にとられて炭を焼き、木挽こびきし、農家に購れて馬の口取り、牛の鼻取りとなって野良にコキ使い牛馬と共に寝起きし、商家の丁稚でっち、下僕、武家の下郎、或いは町人足、は武家奉公の半女はした、町家の下女、風呂屋遊女、飯盛女、ござ敷き女、綿摘み等と称する醜業婦、妾、遊芸人などがその行く先である。                                           

 これらの人々を一般には下人と称した。若し下人同士の夫婦に子供が出来れば、その子も永代奴隷の宿命を背負わされる。
  

「伊東分家下屋敷狩猟厳罰事件」については、拙著『好奇心まち歩きすみだ歴史散歩』にも記載している。↓

人買い船事件の身替わり的厳罰?伊東分家下屋敷の鶴狩猟事件

『好奇心まち歩きすみだ歴史散歩』「五千石旗本父子が狩猟で御家断絶」 鉱脈社 平成28年(2016)

旗本「狩猟」で御家断絶
旗本伊東家「狩猟」で御家断絶
江戸で鶴を撃つ
江戸屋敷で鶴を撃つ
旗本「狩猟」で御家断絶
事件を詠んだ落首

墨田区業平2丁目の旗本伊東家下屋敷跡(右手前の業平公園から奥にかけての道路沿い) 写真は取材当時

旗本伊東屋敷跡

[ミニ知識]

信仰と観光の団体旅行「お伊勢参り」の企画兼ガイド役「御師」

江戸時代の「お伊勢参り」をパッケージツアー化して参宮客を誘致し、ガイド役を担った御師おんしとは、どのような人々だったのだろうか。

『1996年現代農業増刊 すべては江戸時代に花咲いた[ニッポン型生活世界の源流]』農山村文化協会 平成8年(1996)                            

「パッケージツアー・お伊勢参りを演出した御師たちのみごとな顧客管理」吉田豊(生活史家)

※以下、一部抜粋 本文太字化は筆者(私)

全国に四一九万戸も組織した集客力

 江戸時代の中後期、庶民の生活向上と交通制度の整備により、空前の旅行ブームが起こり、盲人も女性も子供も、一人旅が楽しめるようになった。(略)

 お伊勢参りの参宮客を組織、動員し、サービス万端を提供していたのが、山田(外宮)を中心に宇治(内宮)を加えて六〇〇家から七〇〇家に及んだ御師おんしの人々である。

 皇室の祖先神、国家神である伊勢神宮では古来、私幣しへい(天皇以外の者からの捧げ物)は固く禁じられ、金品や神楽の奉納は所定の神職を通じて行われてきた。この取次ぎ役御師で正式には師職と呼ばれ、身分が権禰宜ごんねぎ(大夫)であることから、何々大夫と名乗った。

 その縄張り檀那だんなと呼ばれ、家格によって定められ、世襲された。上は宮家、公家、将軍家、諸国大名家、そして全国各地から各地の伊勢講の講中が檀那で、安永六年(一七七七)には四一九万戸に及んだという。

いたれりつくせりのサービスとガイド

 江戸時代御師は、その経済力と組織力によって神宮本体からの独立性を強め、信仰と観光を兼ねたサービス業者となっていった。

 そのビジネスの中心は、檀那場での伊勢講組織固め参宮客動員、参宮客を迎えての信仰行事宿泊観光サービス提供である。

 参宮客の一行が伊勢に到着すると大夫みずからが丁重に出迎え御師宿に案内する。(略)                 ここで大夫に御供料ごくりょう、神楽料、神馬料じんめりょうが奉納されるが、いずれも神宮には行かず御師の収入となった。

 御師宿の神楽殿での荘重華麗な神事、それが終われば(略)大宴会、(略)近辺の名所見物、そして精進落としには、江戸の吉原、京の島原と並ぶ三大遊郭の一つ古市ふるいちでの遊興(略)と、たっぷり楽しんだ講中の人々は故郷に帰れば(略)そのみやげ話をして、お伊勢参りへのあこがれをいやが上にもかきたてたことだろう。

 御師たちのみごとな組織力、企画力から生まれたパッケージツアーお伊勢参りは、(略)明治四年、新政府が御師制度を禁止するまで、神都伊勢の繁栄をささえてきたのだった。

  

 





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