世情騒然の幕末、江戸では盗賊が横行した。その中には「旗本青木弥太郎を首謀者とし、江戸の有名店小倉庵(現・墨田区向島1丁目24・25辺り)の主人長次郎や男装の遊女を含む強盗団」もいて、歌舞伎の錦絵に見立てられるほどの評判をとった。
私はこの虚実ないまぜに伝わるこの話を拙著『好奇心まち歩きすみだ歴史散歩』(鉱脈社)に、依田学海『譚海』「小倉庵長治」、田村栄太郎『本所・深川・千住』の若林坩蔵「青木弥太郎懺悔談」をもとに記載した。
そして当ブログでは、依田学海の執筆手法は「漢学家の常として、文章を重んずる余りに事実の真を伝えようとすることが二の次となってゐるところがある」とする、宮嶋修多の「『譚海』の意図」を考察資料として加えた。
さらにこのブログでは、「小倉庵長次郎は牢屋敷で死亡」の伝聞を記す『江戸の夕栄』鹿島萬兵衛と、「長次郎が明治維新大赦後に恐喝」の体験談を聞き書きした篠田鉱造『増補幕末百話』も紹介する。
このブログの予告編的YouTubeショート「幕末強盗団の小倉庵長次郎」をリンクする。
[訂正とお詫び]このYouTubeショートのラスト画像の「好奇心散歩」は正しくは「好奇心散歩考古学」です。訂正してお詫び申し上げます。
【参考文献】
「小倉庵長治」依田学海 鳳文館 明治17年(1884) 18年 『新日本古典文学大系明治編3』岩波書店 2005年(平成17)
「『譚海』の意図」宮嶋修多 『新日本古典文学大系明治編3』岩波書店 2005年(平成17)『本所・深川・千住』田村栄太郎 雄山閣 昭和40年(1965)(「青木弥太郎懺悔談」『名家談叢』(若林坩蔵)掲載
『江戸の夕栄』鹿島萬兵衛 中公文庫 中央公論新社 2005年(平成17)
(『江戸の夕栄』高砂屋浦舟[※鹿島萬兵衛] 紅葉堂書房 1922年(大正11))
『増補幕末百話』篠田鉱造 岩波文庫 1996年(平成8)
『江戸の刑罰』石井良助 中公新書 1996年(平成8)
「有名料理屋小倉庵主人や旗本、遊女」らの幕末有名強盗団

松本こーせい『好奇心まち歩きすみだ歴史散歩』(アーク出版)2016年(平成28)
▼依田学海『譚海』「小倉庵長治」 若林坩蔵「青木弥太郎懺悔談」

▼青木弥太郎は旗本で勘定奉行を放蕩と博奕で閉門処分の身

「歌舞伎錦絵に見立てられた」強盗団の処罰 「長次郎は牢死」?
鹿島萬兵衛の『江戸の夕栄』は自身が聞いた話として、この強盗団について紹介。逮捕された青木弥太郎や有名な会席料理屋「小倉庵」主人長次郎らの消息を記している。
『江戸の夕栄』鹿島萬兵衛
一部抜粋要約 (※)と※は筆者(私)注
遊女の強盗と拷問に堪へて大赦に逢ふ
慶応初年(※1865年~ 14代将軍家茂)の頃より世情物騒となり、府の内外で強盗が頻発。噂によると、四、五名で徒党を組む強盗に素人が加わっているという。(略)
本所小梅町(※墨田区)の有名な会席料理屋「小倉庵」(現・墨田区向島1丁目24・25辺り)が謀議所で、首謀者は旗本の青木弥太郎で、その情婦である深川仮宅の遊女屋永喜岡本楼のお職遊女賑ほか四、五名と小倉庵の主人長次郎が案内役となり、諸方に押し入っていたことが判明、一網打尽になった。賑は黒頭巾をかぶり男装して押し入っていたとされる。
一味は評判となり歌舞伎の錦絵に見立てられた。青木を中村芝翫の雲霧仁左衛門の似顔、賑は市村羽左衛門の素走りお熊、紫若の鼠小僧治郎吉(※次郎吉)、忠信利平河原崎権十郎、その他小倉庵長次郎、皆五人男に見立てられた。
小倉庵長次郎は牢死?※
「小倉庵長次郎等は皆自白し、長次郎は牢死したと聞いたことがある。青木弥太郎は拷問(※1)にも犯行を非認して数年服役したが、明治維新の大赦により放免されたという。長次郎は牢死せりと聞きし」
(※1)拷問
石井良助『江戸の刑罰』によると、犯罪事実の認定を目的とする「吟味」は、被疑者の自白を得るこ とに主眼が置かれ、証拠によって犯罪事実が認定されても、本人が自白しないと自白を強要することになる。
拷問
自白強制の手段として用いられたのが拷問で、釣し責といって両手を後ろで縛って、牢屋内 の拷問蔵で上から吊るした。拷問は当時でも重大事と考えられ、滅多には用いられなかった。被疑者を誘導して自白させるのが吟味役人の手柄とされ、拷問は自己の吟味下手を公表するようなものと考えたことが主な原因である。
▼伝馬町牢屋敷跡 松本こーせい『歩いて愉しむ大江戸発見散歩』アーク出版

▼伝馬町牢屋敷跡 の十思公園(中央区小伝馬町) 拙著『なぞのスポット東京不思議発見』山海堂2002年取材当時

青木の牢問(※2)の際の御徒士目付が語ったところによると、樫木の板に山形の鋸歯を付けたる上に坐せしめ、左右の手は後ろの柱に縛し、平盤の自然石の一個十二貫(※45㎏)あるものを膝の上に載せ左右よりゆり動かす、山形の木板は向脛に喰い入る、一枚二枚と重ねるが、青木は覚えなしと答ふるのみ、(略)
(※2)牢問
石井良助『江戸の刑罰』によると、牢問には、笞で打つ笞打、角材を並べた上に石を抱かせる石抱、頭を両足の上に挟み手足を縛る海老責があった。
牢問「石抱」
大赦後の青木は、堺町楽屋新道席亭の主人となり木戸口にゐたが、その後どこの金主(※資金提供者)ありしか府下王子有名の料理屋海老屋の主となり、同家にて病没せり。
鹿島萬兵衛『江戸の夕栄』は「小倉庵長次郎は牢死した」という伝聞を記載しているが、篠田鉱造『増補幕末百話』には、「長次郎は明治維新大赦で釈放され、商家三谷家の今戸の寮(別荘)を訪問して恐喝をはたらいた」との聞き取り記事を三谷家の使用人の話として記しているので、次にその史実を紹介する。
ちなみに、『江戸の夕栄』は明治維新後に長次郎が恐喝に現れた三谷家の「今戸」の別荘地について、次のようにランク付けしている。
「府内中央の地よりあまり遠くない閑静の別荘地としては、根岸(※台東区)の里が第一に挙げられる。
二番目が柳島(※墨田区・江東区)・亀井戸(※江東区亀戸)辺で、陽気の地にして冬暖かで夏涼しいが、梅雨の時や秋に出水のするのが難だ。向島(※墨田区)・小梅(※墨田区)・今戸(※台東区)・真崎(※荒川区)辺は吉原遊女屋の控家が多かった」

▲桜橋の隅田川西岸は江戸の別荘地「今戸」(台東区) 拙著『好奇心まち歩きすみだ歴史散歩』平成28年(2016)取材当時
小倉庵長次郎は明治維新大赦後に「牢帰りを誇示し恐喝」行う
『増補幕末百話』篠田鉱造
一部抜粋要約 (※)は筆者(私)注
[解説]尾崎秀樹
篠田鉱造は報知新聞記者で、明治35年(1901)から古老の実話聞き書きを「夏の夜物語」と題して掲載。さらに「冬の夜物語」と改題し連載を継続した。これをまとめ明治38年(1905)に内外出版協会から出版したのが『幕末百話』である。(略)
『幕末百話』は好事家たちよって珍本として愛蔵され、時代小説家たちの虎の巻ともなる面があった。それが増補版として復活するのは昭和4年(1927)7月である。万里閣書房から刊行された。
その折り「今戸の寮」が収められたが、この一編はかつて三谷家に仕え今戸(※台東区)の寮に住んだ井沢まさという老女の回想で、さらに実地を踏査し、界隈の伝承・巷談をも加えてまとめたもので、実録物として首尾一貫した味をもっている。
今戸の寮
三谷家今戸の寮の井沢まさによると、「今戸の寮では舟で小梅の小倉庵(現・墨田区向島1丁目24・25辺り)へもお汁粉を喰べに行った」とのことで、長次郎の小倉庵は馴染みの店であった。井沢まさの回顧談によると、「小倉庵長次郎恐喝の顛末」は次のようなものであった。

靴の音の小倉庵
(※近隣で火事のあった時に)靴の音をさせて、三谷(※三谷家総支配格の三谷斧三郎)の寮の玄関へ訪れたのが、羅紗(※厚地の毛織物)の羽織を着た大男「エエ小梅の小倉庵(現・墨田区向島1丁目24・25辺り)でございます。御騒々しいことで、御見舞い出ました」と言い置いて帰って行きました。
「今戸で代七、有明楼、小梅でおしるこ小倉庵」と歌に唄われた有名なしるこ屋の主人ですが、御維新前に強盗の前科持で、強面で御一新を渡ったものです。
この小倉庵が三谷の参百両の証文を本人は拾ったのだといって斧三郎さんにお手渡ししたいとうので寮へ再三やって来ました。
小倉庵は居直って「石金抱いた(※伝馬町牢屋敷での牢問「石抱」)小倉庵ですが、三谷斧三郎さんにお逢いしたからといって、卒なことは申しません、逢えるに取次でおくんなせい」と啖呵を切った、(略)
ソコで斧三郎さんも詮方なく明神の開化楼で逢ったところ、参百両の証文を返した、拾ったと称っていたそうですが、誰からかどこからか手に入れたもので、斧三郎さんも「ソレは差し上げますから、先方から御取立て下さい」といったが「イエ小倉庵は拾ったものは頂きません」とどうしても受取らず、その後で参千円の借用を申込んで来たそうですが結局千円貸下げになった訳です。
依田学海の「小倉庵長治」は事実関係に疑問との指摘あり
「小倉庵長治」依田学海 鳳文館 明治1884年 – 1885年 『新日本古典文学大系明治編3』岩波書店 2005年(平成17)宮嶋修多「『譚海』の意図」
一部抜粋要約 (※)は筆者(私)注
青木弥太郎、小倉庵長次郎らの幕末強盗団については、依田学海の著『譚海』の「小倉庵長治」(※『譚海』は長次郎を長治と表記)が有名だが、『譚海』は事実関係に怪しい点が多いとする指摘がある。
依田学海の「小倉庵長治」をおさめる岩波書店『新日本古典文学大系明治編3』は、その点について宮嶋修多が「『譚海』の意図」と題して次のように述べている。
「かつて森銑三(※近世学芸史・書誌学者)は、漢文雑史としては依田学海の『譚海』よりも中根香亭(漢学者、随筆家)の『香亭』雅談」(明治19年(※1886)刊)を取る、『譚海』は「興味のある読物を成してはゐるが、漢文家の弊として、文章を重んずる余りに、事実の真を伝えようとすることが二の次となってゐるところなどのある」からだと書いた(「依田学海」『明治人物夜話』所収)。
もとよりその読み物としての面白さを十分認めたうえでの、致し方なき評価である。(略)
たしかに『譚海』には、厳密な伝記研究などにそのまま使うことをためらうような、事実関係に怪しい点が多い。(略)
怪異の虚譚よりは、勘戒を寓した「実」をとることが『譚海』の眼目であったとするならば、その「実」とは、我々がいうところの「事実」とは別次元のものであったこと、容易に想像される。(略)
『譚海』の意図した「実」とは、実在か否かにかかわらず、学海が文章中に再構築し、奮い立たせようとした、この生身の人間の「実」としてありうべき動きそのものをいうのではあるまいか。たとい架空の笑話や戯曲であっても、学海の漢訳によって人物逸話の要素を内包してしまうという筆致である。