12月14日の「赤穂浪士の吉良邸討ち入り」にちなみ、「浅野内匠頭の吉良上野介刃傷」の前にもあった「勅使馳走役・津和野藩主亀井茲親が指南役吉良に殺意」を紹介する。 伝奏屋敷での吉良の無礼に亀井が殺意を抱くと、家老多胡真蔭が吉良に金品を追加して態度を好転させ御家の一大事を回避した話だ。浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」はこの亀井と浅野の件がモデルとされている。
私は東京新聞連載の「東京ふるさと歴史散歩」で、2008年(平成20)年6月に「島根県の巻【津和野藩と吉良上野介】金品贈り刃傷防いだ家老 島根県・石見国津和野藩」を掲載した。
この連載は東京新聞の意向で「散歩ガイド」の記述にスペースを割く構成だったので、当ブログではその部分を最小限にとどめ、本題の「津和野藩主の吉良への殺意とこれを回避した家老」部分を加筆して全面的に書き改めて、この出来事の概要を紹介。執筆資料の島根県『鹿足郡誌』や『赤穂義士実纂』などを掲載して説明する。
また、この話の簡単なあらすじをYouTubeショート動画に「松本こーせい 津和野藩主の吉良殺害を家老が回避#shorts」と題してアップしたのでリンクする。
※イラストマップと写真は掲載当時
YouTubeショート「松本こーせい 津和野藩主の吉良殺害を家老が回避#shorts」
時は元禄11年 舞台は伝奏屋敷・津和野藩邸・吉良屋敷
伝奏屋敷
東京の玄関口JR東京駅の西側は、江戸時代には大名小路と呼ばれた大名屋敷地の「丸の内」で、日本工業倶楽部、三菱UFJ信託銀行(千代田区丸の内1-4-6)の辺りには、朝廷からの使者「勅使」などの宿舎である「伝奏屋敷」があった。勅使(天使、朝使)は天皇からの使者で、将軍が天皇に派遣した年頭使に対する答礼として、2月下旬か3月上旬に江戸に参向した。江戸城で将軍との対面・答礼・饗応の馳走および能などが行われた。
吉良上野介屋敷跡
また、東京駅の八重洲口側のグラントウキョウサウスタワー(千代田区丸の内1-9-2)の西隣の線路辺りは、幕府の儀式典礼を掌る高家筆頭の吉良上野介義央の屋敷だった。
石高は少なくても諸大名からの贈答の「高家」
「足利以来ノ名家ニシテ、武田、畠山、大友、吉良以下二十六家アリ、世襲ニシテ、幕府ノ儀式典礼ニ関スル事ヲ掌リ、勅使ヲ待遇シ」「ニ万石以下ノ列ナリシトモ、或ハ四位五位ニ叙シ、侍従少将ニ任ザラル、モアリ」「千五百石ノ職ニシテ」「高家ノ中、二人若シクハ三人ヲ撰ビテ、専ラ京都ノ使節ヲ掌ラシム、之ヲ肝煎ト云フ」 『古事類苑』明治政府編纂 古事類苑全文データベース – Kojiruien (nichibun.ac.jp)
高家は石高は二、三千石と少ないが、大名でもなかなか成れない四位に登り、侍従や少将に。これが家の格として定着する。将軍に拝謁するときも優遇され、他の諸大名等は高家に席次や作法の指示を仰がなければならなかった。赤穂事件はこうした状況の中で起こった。 日本の近代史15『元禄の社会と文化』高埜利彦 吉川弘文館
高家は礼式の指導および宮中と眤懇なので、、諸侯が交際を求めるものが多く、諸侯からの仕送り幇助を受けていたから生活は楽であった。 『江戸幕府役職集成』笹内良彦 雄山閣出版
津和野藩上屋敷跡
石見国(島根県)津和野藩主亀井茲親の上屋敷は、日比谷公園の南隣のイイノホールのある飯野ビル(港区内幸町2-1)の辺りにあった。
幕府御役で津和野藩財政窮乏下での勅使馳走役
勅使馳走役(饗応役、接待役)の播州国赤穂藩(兵庫県)外様5万3千石の藩主浅野内匠頭長矩が高家吉良上野介に斬りつけた「江戸城松の廊下刃傷事件」は元禄14年(1701)3月14日のことで、浅野は即日切腹となった。
そして家老大石内蔵助良雄率いる赤穂四十七士による、本所(現・墨田区両国3-13-9本所松阪町公園)の「吉良邸討ち入り」が決行されたのは、翌15年12月14日。5代将軍綱吉治世下での出来事であった。
津和野藩外様4万3千石の藩主亀井玆親が吉良に殺意を抱いたのは、「浅野内匠頭の吉良刃傷事件」の3年前の元禄11年(1698)の勅使馳走役の時のことだ。茲親にとっては元禄3年(1690)、8年につづく3回目の勅使馳走役で、同年には生類憐みの令の「中野犬小屋」の普請手伝いも命じられて藩の財政は悪化を辿り、10年には「倹約令」を出すに至っている。そんな藩財政窮乏下で迎えた元禄11年の勅使馳走役であった。
家老が「藩主に自重」求め「吉良に金品追加」して刃傷防ぐ
元禄11年(1698)、津和野藩主亀井玆親は勅使馳走役として伝奏屋敷で高家吉良上野介の指南をうける際に、吉良から数々の無礼をうけ憤慨。家老の多胡に「もはや我慢の限界」と告げ、「吉良への殺意」を明かした。
驚いた多胡は「指南役の吉良には金品を贈っていたが、これでは不足だとして殿に辛く当たっているのだろう」と察した。そこで「これ以上、吉良の無礼がつづくなら、討ち果たしましょう」と殿の心情に理解を示した上で、「しかし、ことは御家の一大事に関わることなので、一両日御堪忍下さい」と自重を求めた。
その上で、多胡は直ぐに金品を吉良邸に持参して、「田舎育ちで故事に不馴れな殿のことゆえ、なにかと御心配でしょうが、無事御役を果たせますよう御引き回し下さい」とお願いした。吉良はこれで上機嫌になり、玆親への態度を豹変して親切に指導にあたった。こうして御家の一大事は回避されたのである。
島根『鹿足郡誌』の「藩主亀井の隠忍と家老多胡の智謀」
『鹿足郡誌』野津左馬之介編纂 島根縣鹿足郡町村會発行 昭和10年(1935)
多胡真蔭の智謀
元禄の初め茲親 伝奏の馳走役を命ぜらるるや、高家なる吉良上野之介は強欲の人物にて、茲親の事礼に慣れざるを以て旧儀作法を知らず、之を指導すべき吉良は却って之を辱めしかば、茲親憤悶に堪えず、外記(筆者注 真蔭の通称)を呼び出し 吉良が無法の数々を談し、最早堪忍なり難き旨を告げたり、
真蔭は涙ながら公意御尤に次第に付、外記に於ても異存無し、無体募り候はば、御打果可然と言上し、(略)此度の御役に付いては度々(略)御進物を贈らせ候へども、強欲の上野之介に付飽き足らず、此る無体の仕向とは申しながら、(略)此は御家の一大事につき、今一両日御堪忍遊ばされたく、(略)引続無体の仕向きにも及び候はば、余儀なき次第に付き、御手際よく打果し遊ばさる可しと諫止して(略)
御納戸金一箱取り出し(略)吉良邸を訪問して上野介に面会して、(略)此度主人御役に付ては、御頼の使者も差上候処、其後は御頼にも参館不仕此に御伺ひせり、主人儀は鄙郷に育ちし故事に馴れ不申不知案内の事も多かるべくして 御心配を掛けし事に候、此上何卒無事に御役相勤候様御引廻し下さる様申入る、
是は聊の品にて耻入候へども主人の寸志にて手土産に進呈候とて、贈金差出せば、吉良殊の外機嫌にて 是は是は度々の御使者猶又御叮嚀贈物痛入り候、此上は上野介が引受 進退万端心添致候間決て御気遣無之様とて、(略)
翌日より吉良の態度一変し、上機嫌にて万事に先立ちて何はかくあるべし、此は箇様箇様にと引き廻はし、親切懇和到らざるなき豹変せる態度に、茲親不審に堪へず、真蔭へ委細状況を話せしかば、
真蔭はいふ 御家の一大事には替え難きを以て、かくかくに取計いたしたる段 言上せしかば、大に驚かせられ、外記の計策卓越にして真忠の儀と賞賛せられ、公役無事に勤了せり、
之を元禄十四年浅野家の騒動に比するに 茲親の隠忍の徳ありしは勿論、真蔭の処置は禍を未発に防ぎしは 真に能く輔翼の責を尽くしたる美蹟なり、(略)
※一部抜粋 旧漢字は当用漢字に改め、仮名文字はそのままでとし、字間と段落を設けた。太字は筆者による。
亀井、浅野の件がモデルとされる「仮名手本忠臣蔵」
『津和野町史 第二巻』沖本常吉編 津和野町発行 昭和51年(1976)
元禄十一年(一六九八)三月、の勅使榊原前大納言・正親町前大納言の江戸参向の時、茲親はその馳走役を勤めた。
その時のことが歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」のモデルとなって有名になった。 元禄十五年(一七〇二)の赤穂事件から四十七年目の寛延元年(一七四八)に、竹田出雲・並木千柳・三好松治の合作による浄瑠璃で、竹本座において上演をみたものである。
太田南畝(蜀山人)はその著「半日閑話」において、桃井若狭之助を茲親、加古川本蔵を家老の多胡主水としているが、主水は真蔭の間違いである。いずれにしても茲親の吉良上野介刃傷未遂と浅野内匠頭の刃傷の二つの事件を二重写しにしたものである。
強欲か名君か? 史料の乏しい吉良義央の実像
『鹿足郡史』に「吉良上野之介は強欲の人物」、『仮名手本忠臣蔵』に「極悪人」として描かれるなど、吉良には悪役のイメージが定着している。その一方で、吉良の所領では名君としての逸話が残されている。強欲かそれとも名君か、その実像はどのようなものだったのだろうか?
日本の近代史15『元禄の社会と文化』高埜利彦 吉川弘文館 平成15年(2003)
吉良氏の所領
吉良氏の所領の中心は、三河国幡豆郡吉良荘(現・愛知県吉良町から西尾市にかけての一帯)
名君の逸話
吉良義央の領地における業績は、黄金堤の築堤や富好新田の開発等が有名で、名君として今日でも慕われている。(略)
赤穂事件の後、吉良家は断絶し、家の史料は散逸した。吉良家領は一時幕府領となり、その後複数の旗本領に分割。家領における吉良氏の支配を記録した史料は現地にも残されておらず、伝承に頼るしかない。
高家義央の実像
吉良義央は、「仮名手本忠臣蔵」の高師直のモデルとして、日本一の極悪人のごときイメージが形成されている。義士論の中では、貪欲で賄賂をむさぼったとされている。
しかし、教えを請うたことに対して謝礼をするのは、田沼意次の例を引くまでもなく、当然の風習として認知されていたことであり、吉良義央の場合がどの程度であったのかは風評のみで確たる記録が見いだせない。また、その他の悪行についてもその実態がほとんど確認できない。
不確かな実像
吉良義央に関する逸話は多い。しかし、その大半は事件後に予断をもって記されたものであり、個々の検証は略すが、いずれもその信憑性はうすい。(略)
吉良義央については、名君としての姿も、欲深く驕慢な姿も、共に史料的裏付けを得るには至らなかった。