高松藩の記録にない「江戸下屋敷武具横領転売・証拠隠滅爆破未遂」記す『世間咄風聞集』

高松藩武具横領

元禄時代の噂話や風聞などを集めた筆者不明の『世間咄風聞集』に、「松井与左衛門咄」がある。「高松藩下屋敷に保管する徳川家康から拝領の具足を含む武具を蔵役人が転売、証拠隠滅のため蔵ごと爆破しようとした」という話だ。

私はこの話を東京新聞連載の「東京ふるさと歴史散歩」に執筆するにあたり、高松藩の香川県立図書館に藩史料などの資料を問い合わせたが、「藩記録をはじめとする歴史資料に記載されたものは確認できなかった」という回答だった。

そこで今回は、「東京ふるさと歴史散歩」の記事でこの咄を紹介し、唯一の資料である岩波文庫『元禄世間噺風聞集』「松井与左衛門咄」の原文を掲載する。

そしてこの話が事実だとしたら、どのように処罰されたかを推察。「大名屋敷内での事件における幕府と大名による二重処罰」の参考事例として、『宮崎県文化講座第48輯』に私が執筆した「高鍋藩屋敷での藩士と宿場女郎心中事件での処罰」を紹介する。

最後に「武具横領転売事件発覚時に藩主病気発症死亡」「高松藩の親藩である水戸藩水戸光圀が将軍綱吉に疎まれていた史実」を記して、高松藩に記録のないこの「あわや御家の一大事」の事件を推測するうえでの参考に供したい。

高松藩の記録にない「下屋敷武具横領・証拠隠滅爆破未遂」

松本こーせい 東京新聞「東京ふるさと歴史散歩」平成20年(2008)8月9日

高松藩下屋敷武具横領事件

元禄の事件・醜聞の噂話記した「世間咄風聞集」とは

まず初めに「高松藩下屋敷武具横領証拠隠滅爆破未遂事件」を記した『世間咄風聞集』(『元禄世間咄風聞集』)とは、どのような書物なのか紹介しよう。

『元禄世間咄風聞集』長谷川強校注 岩波文庫 1994年(平成6)

「解説」  ※文中の太字化は筆者(私)が施した
元禄七(一六九四)―元禄一六(一七〇三)年の間の江戸の噂話を書き留めた書.浅野内匠頭の刃傷沙汰をはじめ,生類憐み令にふれた科で処刑された事件,旗本の乱心,姦通などの醜行,落語「野晒」の原話などを収める.浮世草子等の源泉となった雑記類の多くが散逸した中では希有の生残りである.元禄時代の裏面を語る興味深い資料.付・索引.                                                            岩波文庫「解説」 はこちら https://www.iwanami.co.jp/book/b245934.html

江戸時代の『世間咄風聞集』に記載の「武具横領事件」

『元禄世間咄風聞集』長谷川強校注 岩波分庫 1994年(平成6) 

松井与左衛門咄  文中の※、読み仮名、[]は原文。 改行と段落は筆者(私)が設けた。
  ※松井与左衛門  未詳。    

一 松平讃岐守様御武具一切いれ候御土蔵、白銀しろがねの御下屋敷に有り候由よし                          ※松平讃岐守  頼常。讃岐高松12万石。 ※白銀  同家下屋敷は港区白金にあった。

その土蔵預り候役人五、六年以前より御上屋敷より武具虫干むしぼしに参候へば、成程なるほど結構けっこうなる馳走沢山いたし、「御武具の儀は最早もはやもはや干仕廻ほししまい候」もうし候年も有之、                                          ※上屋敷 芝札の辻。

又、「今日は殊外ことのほか取込とりこみ候間、明日□拙者干可申ほしもうすべきもうす年も有之候て、五、六年已後いご虫干に参候者は馳走いたし返し候由。

然処しかるところひつじ六月中旬より彼役かのやく病気に罷成候故後役あとやく被仰付おおせつけられ御武具一切引渡筈ひきわたすはず 相定あいさだめ候処に、五、六年以前より御武具を段々しちに入、最早何にても無之明き土蔵にて有之故、

具足ぐそく五拾七両[領]、御まく(幕)其外之御武具類に大分之儀にて候由。金子にしめて五、六千両之物之由。其内に従権現様ごんげんさまより御拝領御具足壱両は出申候由。これは七百両程仕御具足之由。其外之物は何色にても一色も出不申候由。
従権現様 家康から。

一 右盗様は、土蔵より取出し御門番と云合いいあわせ、讃岐国之者御屋敷近くへ借屋しゃくや持罷有もちまかりあり候由、この者にわたし申候。方よりしち屋に渡し候由。それより彼者も県[懸]おち仕候へ共、御関所人留何国ひとどめいずくにもまいる難成なりがたく立戻たちもどり籠舎ろうしゃ仕候由。

一 水戸様※右之趣御聞おきき被為遊あそばされ、右之御武具は何とぞ不残のこらずかへし候様に、金子いり候はゞ十万両にても十五万両にても御出し可被成由。さてまた彼役人は従類じゅうるい仕置しおき可仕つかまつる被仰候由、沙汰御座候。                   ※水戸様 高松の初代頼重は水戸光圀の兄、水戸の当主綱条は頼重の子。高松の頼常は光圀の子。 

香川県立図書館と文書館「武具横領資料は見つからず」

東京新聞「東京ふるさと歴史散歩」に「武具横領事件」を執筆するにあたり、高松藩の史料を活用するため香川県立図書館レファレンスをした。

しかし意外なことに、この重大事件についての「資料は見つからず、香川県立文書館にも問い合わせたがわからなかった」との回答があった。

「家康から拝領の具足を含む武具を家臣が横領」というこの大事件は、単なる噂話か? それとも御家の一大事だとして藩記録に記すのをはばかったのだろうか?

この事件に興味を持ち、調べてみようとする人もいるかもしれないので、ご参考までに県立図書館が調査した資料が列挙された「回答」を添付する。

事件が事実なら処分は?大名屋敷の大名と幕府の処罰権

この事件に関する記述は『元禄世間風聞集』だけなので、以下の事項を紹介して藩記録にないこの事件を推測する材料に供したい。

・大名屋敷の大名と幕府の処罰権

・幕府の刑罰 高松藩の刑罰

・高松藩主の善政と事件発覚年の体調不良と死去

・将軍綱吉に疎まれていた水戸藩主徳川光圀

大名屋敷の大名と幕府の処罰権

『新修千代田区史』千代田区 平成10年(1998)  ()内の要約と太字化は筆者(私)

武家屋敷の空間的性格

武家奉公人の事件・紛争については、大名の自分仕置権が認められていた。

武家屋敷は治外法権の場

江戸の武家屋敷、特に大名屋敷は、治外法権を有する現在の大使館の趣があった。                   藩の支配下のある藩士百姓・町人・武家奉公人が、藩邸内で事件を起こした場合、解決する責任が負い、幕府は一切介入しないのである。大名は江戸藩邸内でも、彼らに対して、独自に裁判する権限を持っていたのである。

第6表(略)は鳥取藩藩士武家奉公人が江戸で起こした事件を一覧にしたもので、盗みや公金横領などの事件が生じていることが分かる。(「藩邸年表上・中・下」鳥取県立博物館所蔵鳥取藩政資料、『鳥取県史七』所収「因府年表」より作成)  延享2年(1745) 官金を横領し閉門になっていた、勝田嘉左衛門の倅が追放

多くの事件が藩邸内で起きており、彼らに対する処罰は鳥取藩が独自に下している。藩の定めた法度(はっと)に従って、裁許が下されており、武家屋敷内部で生じた藩士武家奉公人の事件・紛争については、大名の自分仕置権が認められていた。

人と領域の支配

武家屋敷内は治外法権であるというのは、藩の支配下にある者藩邸内で事件を起こした場合、藩法が適用されたという意味である。

藩邸内で他藩の者、例えば江戸の町人事件を起こした場合、逆に、藩士やその家来が、藩邸の外事件を起こした場合はどうだったのだろうか。

藩邸内に江戸町人が泥棒に入った場合、藩はその町人に対して刑罰を科すことはできなかった。           藩邸内で生じた事件老中に届けられ、江戸町奉行が町人の身柄を引き受け裁許を下したのである。藩邸内でどのような事件が生じたかは、藩が幕府へ届けない限りわからない。

事柄によっては届け出ずに、藩は当事者と相対で事件を処理することもあった。公儀へ届け出れば、文書のやりとりを始め関係者が呼び出されるなどして、煩瑣であったためである。

(事例の要約・岡山藩向屋敷で町人が窃盗未遂、二度目だったことからか、藩は老中に届け出、町奉行は「入れ墨の上重敲(たたき)」とした)    

当ブログ「宇江佐真理「雨を見たか」の屋敷門外捕縛、鼠小僧の例も」参照                     https://koukisin-sanpokoukogaku.com/blog/?p=1407  

鼠小僧捕縛 

   

幕府の刑罰と高松藩の刑罰】                                     

『世間風聞集』には主犯の土蔵役人とその家族、それに共犯の門番等の吟味の記述はあるが、彼らがの処罰については記されていない。そこで参考までに「幕府の刑罰」、それに事件から45年後の延享4年(1747)に出されたものだが、「高松藩の御仕置之仕方」による重罪の処罰の一部を紹介する。

幕府の刑罰                               

『江戸の刑罰』石井良助(中公新書)によると、各刑罰の意味は次のようなものだ。

(はりつけ)                                           
古主殺、親殺、師匠殺、主人傷つけ、関所をよけて山越えした者などに科す。

斬罪 斬首                                           

死罪と同じように「斬首」の刑。その者の田畑、家屋敷、家財は闕所けっしょ(財産没収)になる。

士分(武士身分)以上の場合には「斬罪」と呼ぶ。斬罪は武士や僧侶・婦女・老若・廃疾の者に、本刑の代わりに科す寛大な刑「閏刑」

梟首(きょうしゅ)                                        

獄門の古称で晒首のこと。罪の重い者にはさらに引廻が付加され、引廻のうえ牢内の切場で斬首したのち、晒首にする。

討ち捨て                                             
牢屋内死刑場で打首になった死骸は葬ることができない。取り捨てるべきものなので、江戸では本所回向院の千住の寮へ埋めた。

御国追放                                             

追放刑は幕府のみでなく、諸藩でも領分構(領分払い)と称し、旗本領でも知行払と称して行っていた。     

高松藩の刑罰「高松藩の御仕置之仕方」                  
『香川県立文書館紀要第19号』野中寛文「高松藩刑法と身分の利用」平成27年(2015)

附火つけび  はりつけ

人殺  はりつけあるいは斬罪梟首きょうしゅまたは於籠屋敷に討捨

御城御林江入り盗賊人  はりつけまたは斬罪梟首きょうしゅ 

銀子似セかね  斬罪梟首きょうしゅ 

御家中江入り盗賊人  斬罪梟首きょうしゅ または御国追放

押入盗人  斬罪梟首きょうしゅ またははりつけ

他藩の例【高鍋藩邸に女郎匿い心中と未遂事件の幕府と藩の処罰】                     『宮崎県文化講座研究紀要第46輯』宮崎県立図書館 令和2年(2020)                       松本こーせい「散歩考古学 江戸の中の日向諸藩ー日向諸藩の江戸での事件や出来事から幕府の仕組みに立ち至る」

リンク先https://www2.lib.pref.miyazaki.lg.jp/?page_id=587

高鍋藩上屋敷で品川女郎心中事件

藩士4名がなじみの品川宿場女郎4名を藩屋敷に匿い2組が心中

12代将軍徳川家慶の天保12年(1841年)、日向高鍋藩(宮崎県)の藩士4名が、品川歩行かち新宿の幕府公認の宿場女郎「食売女(飯盛女)」4名を食売旅籠屋から欠落ちさせ、藩屋敷内の長屋に匿まった。旅籠屋が藩に掛け合ったが藩は解決に猶予を求め、その間に2組が心中に及んだという、不祥事大事件。

は心中を幕府に届け出、検使による吟味をうけた。死骸は取り捨てるように親類、旅籠屋に申し渡された。心中しなかった女郎については、旅籠屋と内済(和解)した。

幕府の処罰
幕府が心中した藩士と女郎の「死骸の取り捨て」を命じたのは相対死あいたいしに(心中)禁止令」による処罰で、心中死体は取り捨てにされ、葬儀は許されなかった

高鍋藩の処罰
生存者と心中未遂者への幕府と高鍋藩の処分                                   生存藩士の処分は、一人は国許(川南町)で「浪人」に、もう一人は「両耳切り」のうえ、藩の飛び地(串間市)で非人(江戸時代の賤民のひとつ)頭に下げ渡される「非人手下てかとした。

「浪人」と「両耳切り」はともに高鍋藩の刑罰だが、「非人手下てか幕府相対死あいたいしに(心中)禁止令」において、心中未遂者に科せられる刑罰なので、一人は心中未遂だったと思われる。

高鍋藩の関係者処分                                                      者頭は足軽の弓、鉄砲、槍組の頭なので、心中者らは足軽身分だと思われる。

江戸家老留守居役の処分の記載は確認できなかった。

事件発覚の影響か?高松藩主の体調不良と死去

第2代藩主松平頼常は藩の倹約令を率先実行して藩財政を改善凶作時には困窮者の救済をはかり、藩の綱紀引き締めをはかるなど善政を実行。武具横領事件発覚の年体調を崩し、翌年死去した。

元禄8年(1695) 

倹約令を出して藩主自ら倹約実行。20万両程度の小判を貯えた。

風水害や日照り、干ばつにより稲の凶作がつづくと、松平家別邸「栗林荘」の庭普請(現・栗林公園)に困窮者を雇い、賃金米を与えて餓死を防いだという。

元禄9年(1696)

法令や条目を制定して藩の綱紀の引き締めをはかる。

元禄16年(1703)

高松藩下屋敷武具横領事件が発覚したこの年の秋、頼常病気になる。

宝永元年(1704)

藩主を養嗣子の頼豊(初代藩主頼重の孫)に譲り、江戸屋敷で死去。      

将軍綱吉に疎まれていた水戸藩主徳川光圀

「高松藩下屋敷武具横領事件」が事実だとしたら、それを藩記録に記さなかった理由はなんだろう?

徳川御三家水戸藩の支藩である高松藩が、「神君家康公から拝領の武具等を家臣が横領転売」という大失態が公になるのを避け、親藩である水戸藩の故徳川光圀(水戸黄門)が時の将軍綱吉に疎まれていたので、御家の一大事になるのをおそれたからだろうか。

綱吉と光圀との関係性悪化を示す「光圀の書状」              
『水戸市史中巻(一)』水戸市史編さん委員会 水戸市役所 昭和43年(1968)

将軍綱吉がわが子徳松を世子に立てようとしたとき、光圀綱吉の兄故綱重の子綱豊を立てることを勧め、また綱吉が娘の婿紀伊家の綱教江戸城西丸に住まわせようとしたときも、西丸は将軍世子の住む所だから名分が合わないといって、賛成しなかった。幕府の生類憐みの令にも反対であった。

これらの事から、綱吉に疎まれるようになり「御一生の内、くひちがひたる事のみにて御過しなされ候」「桃源遺事」に記されている。

また光圀が生類憐みの令に従わず、わざと狩りに出て殺生したことや、鍋島元武をはじめ親密の大名・旗本の有志と千寿会という風雅の会を作って時々集まっていたこと(風雅に託して時勢の事なども談合したらしい)などが、近年鍋島元武宛光圀書状(茨城県立図書館所蔵)で明らかとなった。 ※筆者(私)注 「桃源遺事」は水戸光圀の伝記                           
『桃源遺事 水戸光圀正伝』稲垣国三郎註解 清水書房 昭和18年(1943)                  
国立国会図書館デジタルコレクション インターネット公開貼り付け元  <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1030760>

 

                 

 






 


 


 
 

 

 

  

                                  

 

            

 

 

          

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