江戸城御坊主とは?「御数寄屋坊主」が藩主生存僞装の相続工作!「奥坊主」河内山宗俊の水戸藩恐喝!

江戸城の坊主衆

私が子供の頃は絢爛豪華な「東映時代劇」の黄金時代で、江戸城が舞台の際、坊主頭の男たちがせわしげにサササと廊下を行き来する姿が印象的だった。「なぜお坊さんがいるんだろう?何をしてるんだろう?」と子供ながらに好奇心をおぼえたものだ。

そもそも彼ら「江戸城の坊主衆」は、仏教のお坊さんではないのだが、現代のテレビ時代劇ではその姿を目にすることも少なくなってしまった。そこで今回は「江戸城の坊主衆の職務と名称」を紹介し、「なぜ将軍の近くに坊主姿の者を召し抱えたのか」その時代背景を紹介する。

まず最初に「江戸城坊主の職務」を説明。これら坊主衆の総監督者を「同朋どうほう」と呼び、その支配下にあった「同朋」「奥坊主」「用部屋坊主」「時計役坊主」「土圭間とけいのま坊主(時計間坊主)」「表坊主」「太鼓方坊主」「数寄屋坊主衆」「紅葉山坊主」「霊屋付坊主」といった職制を列挙する。

数寄屋坊主」がいわゆる「茶坊主」で、茶事に通じた家系で御茶道具に関する職務を担当。土圭間とけいのま坊主は、表向(※幕府の儀礼と政治の中心の大広間。大名の控室や諸役人の詰所があった)の役人中奥(※将軍が日常生活を送り、政務を執る部屋)へ入らないように監視した。また男子禁制の大奥(※将軍の正室、側室の居住空間)には女性の御伽おとぎ坊主」という者もいた。

そんな役職の中で、「数寄屋坊主大名の猟官運動に絡んで袖の下」を得ていたり、「大名家出入坊主藩主の死亡秘匿して生存を装い、相続偽装工作に関与した事例とその理由、「将軍用御茶を数寄屋坊主が宇治から運ぶ御茶壺道中」の権威ぶりを明かす数寄屋坊主の回顧談、「奥坊主小普請組・河内山宗俊水戸藩ヤミ富くじ恐喝事件も紹介する。

私のブログの予告編的YouTubeショート松本こーせい@koseisanpo」に「江戸城御坊主とは?」をアップしているので、リンクする。


参考文献
近世庶民生活史料『藤岡屋日記第一巻』第六(文政8年・1804年)鈴木棠三・小池章太郎編 三一書房 1987年(昭和62)
『江戸巷談 藤岡屋ばなし』『江戸巷談 藤岡屋ばなし続集』鈴木棠三 ちくま学芸文庫 2003年(平成15)
『増補幕末百話』篠田鉱造 岩波文庫 1996年(平成8)
『鳶魚江戸文庫36江戸雑録』三田村鳶魚著 編者朝倉治彦 中公文庫 1999年(平成11)
三田村鳶魚『江戸武家事典新装版』稲垣史生編 青蛙堂 昭和38年(1963)
『図解 江戸城をよむ 大奥・中奥・表向』深井雅海 原書房 1997年(平成9)
国立公文書館デジタル展示【旗本・御家人Ⅲお仕事いろいろ】[女中帳<御伽坊主>]
特別展『江戸城』江戸東京博物館 読売新聞東京本社 2021年(平成19)
『新編千代田区史通史編』「殿舎の構造と機能」千代田区 平成10年(1998)

幕府が「坊主姿」に期待した戦国気風緩和と文化人的作用

江戸城内でなぜ坊主姿の者たちが働いていたのだろうか? 三田村鳶魚『鳶魚江戸文庫36江戸雑録』によると、江戸幕府が将軍の近くに坊主を召し仕えさせたのは、室町幕府に倣ったもので、その狙いは次のようなものだったという。
  (以下抜粋要約)(※)は筆者(私)による補足
「室町将軍僧徒側近召し仕えたのは、当時、学識に富み、礼儀に通じた文化人は、頭を丸め袈裟姿の僧侶のほかにいなかったからで、それが殺伐な時代に色取りを添え、戦争気分を緩和する効用があったからである」             

そして江戸幕府室町幕府を模倣したのは、足利家の風流や奢侈しゃし(※ぜいたく・おごり)を学ぶためではなく、長く続いた戦国時代の気風解消するためであったという。

「当時、高尚な文化人であるとされた僧徒を登用して、太平の世になったことを人々にわからせるには、平穏温和人情に厚い気性を起こさねばばならないそのためには大名旗本等が合戦昂奮治める必要があるから、名利(※名誉と利益)の外にいて、栄枯得失に係らない高尚な文化人である僧徒を登用して、その活きた作用の効果に待とうしたのである」

「身分のない御坊主が例外的に将軍の前に出れた」理由とは!?
江戸城の御坊主には身分がなかったので、将軍の前に出られる御目見おめみえの資格を有していなかった。しかし御坊主は御目見できた。
これについて三田村鳶魚は「御坊主は例外で御用次第、頓着がなかった」「御坊主の上御同朋ごどうほうがある。御同朋は、法体道服職禄百五十俵の役高、これは御目見以上で、今日の高等官、そのかしらは職俸二百俵、四季施と称して、折々の時服を給せらる」としている。

そして「室町幕府8代将軍足利義政御成御坊主が同行御目見していた」その意味について、明良帯録めいりょうたいろく※』の記述を次のように引用している。
職掌それを記して、御成之節、御先へ相立つ、法体ほったい(※僧侶姿の者)を先へ連れらるゝことは、東山殿※室町幕府8代将軍足利義政)の頃より始る。是を昵近じっきん(※主君の側に仕えること=近習、側役)せらるゝ事は、茶会と号し、なるものあるとき、法体なれば、席の詰に座して、其の様子を察する主意なり                
『明良帯録』文化11年(1814年 11代将軍家斉)刊 作者の蜻洲無学斎人せいしゅうむがくさんじんは小田原藩士の山形彦左衛門豊寛とされる)

「江戸城坊主衆の職制」茶の湯坊主から大奥女坊主まで

天守(左端の青印)の前方に本丸御殿(左から大奥・中奥・表御殿)があった
「万治年江戸御本丸御表御中奥御大奥総絵図」(宝永度の説あり)
 ※万治は4代将軍家綱 宝永は5代綱吉・6代家宣期
東京都立図書館デジタルアーカイブ TOKYOアーカイブhttps://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000002-00006376

江戸城天守台

天守台の上から見た江戸城本丸御殿跡(前方下の広場一帯)

【江戸城坊主衆の職制一覧】
若年寄配下と「寺社奉行配下」
江戸幕府の職制では江戸城坊主は「若年寄の配下」に属し、「同朋どうほう」と「数寄屋すきや」に大別。「同朋頭」のもとに同朋・奥坊主組頭・表坊主組頭・奥坊主・表坊主・風呂屋小間遣・奥六尺・風呂屋六尺・表六尺、「数寄屋頭」のもとに数寄屋坊主組頭・数寄屋坊主・露地之者がいた。数寄屋坊主がいわゆる「茶坊主」である。またこれらの坊主のほかに、「寺社奉行配下」の紅葉山坊主、霊屋おたまや坊主という者もいた。

▲「浅野内匠頭の殿中松之廊下事件」の絵に描かれた江戸城坊主
「仮名手本忠臣蔵」奥田忠兵衛 明治19-20                          国立国会図書館デジタルコレクション インターネット公開(裁定)
http://id.ndl.go.jp/bib/00000050940

江戸城坊主衆職制は以下のとおりだ。(三田村鳶魚『江戸武家事典新装版』稲垣史生編より作成 ※は私による補足)
若年寄配下
同朋どうほう
同朋頭 職禄200石 家禄100~200俵 定員4人 昇進経路・同朋衆より
※江戸城坊主衆の監督者老中の上御用部屋へ出入りでき、同朋頭は老中と諸役人の間でおよび文書の取り次ぎに従事(この項『新編千代田区史』「殿舎の構造と機能」)
同朋衆 職禄150俵 家禄80~200俵 定員10人 昇進経路ー                     将軍の居所である「表向」の給仕役。御用部屋にあって老中若年寄雑用をなし、公文書を関係の役人届ける役目も。将軍出行の場合は必ずお供する(この項『新編千代田区史』「殿舎の構造と機能」)
仏教の法服である道服みちふく(どうふく とも)は同朋衆でなければ着られない(この項『『鳶魚江戸文庫36江戸雑録』「御数寄屋坊主」三田村鳶魚)
奥坊主組頭 職禄50俵 家禄ー 定員2人 昇進経路ー
奥坊主 職禄20俵 家禄ー 定員116人 昇進経路ー 
奥坊主小道具役 職禄50俵 家禄ー 定員12人 昇進経路ー 
用部屋坊主 職禄50俵 家禄ー 定員28人 昇進経路ー 
※用部屋は大老・老中・若年寄の執務室
時計役坊主 職禄ー 家禄ー 定員16人 昇進経路ー
御櫓の太鼓を打つ役、この太鼓で御門を開閉する
時計間坊主 職禄ー 家禄ー 定員72人 昇進経路ー                      ※時計ノ間(土圭ノ間・口奥)坊主は、表向と中奥の境「口奥」に常駐表向の役人が中奥に入らないよう見張り監視をする(この項『図解 江戸城をよむ 大奥・中奥・表向』深井雅海)
表坊主組頭 職禄40俵 家禄ー 定員9人 昇進経路ー
表坊主 職禄ー 家禄ー 定員216人 昇進経路ー
※江戸幕府の殿中で、大名や諸役人に給仕する剃髪者の事(この項『図解 江戸城をよむ 大奥・中奥・表向』深井雅海)
登城した諸大名・諸役人が使う「湯呑所」給仕表坊主(この項『鳶魚江戸文庫36江戸雑録』「御数寄屋坊主」三田村鳶魚)
太鼓方坊主 職禄ー 家禄ー 定員8人 昇進経路ー 

数寄屋すきや頭]
数寄屋頭 職禄150俵 家禄ー 定員3人 昇進経路ー
数寄屋坊主はいわゆる「茶坊主」で茶事に堪能し、御茶道具に関する用向きを担当
数寄屋組頭 職禄40俵 家禄ー 定員11人 昇進経路ー
数寄屋坊主衆 職禄40俵 家禄ー 定員101人 昇進経路ー
※【御数寄屋坊主の御茶以外の仕事(調進修繕工作職)】袋師張付師風呂師釜師檜物師表具師唐木細工師庭作
※数寄屋頭は日勤であったが、組頭以下は隔日勤務で、御用は相応にあったから、閑ではなく、忙しいくらいであったという。何で忙しいか明白ではないが、御数寄屋頭の所属をみると、袋師張付師風呂師釜師檜物師表具師唐木細工師等の職人庭作がある。(この項『鳶魚江戸文庫36江戸雑録』「御数寄屋坊主」三田村鳶魚)

▲数寄屋坊主
粟田口桂羽 [原図]『御茶壺之巻』,[狩野友信] [模写],[18–].
国立国会図書館デジタルコレクション インターネット公開(裁定) https://dl.ndl.go.jp/pid/2540806          

寺社奉行配下
紅葉山もみじやま坊主 職禄50俵 家禄ー 定員6人 昇進経路ー
※徳川家康を祀る紅葉山御宮東照宮の給仕役 
霊屋おたまや付坊主 職禄50俵 家禄ー 定員10人 昇進経路ー
※2代将軍秀忠以下の歴代将軍を祀る霊屋の給仕役

剃髪の大奥女中「御伽坊主」は将軍の雑用係で中奥へも入室

前記の「江戸城坊主衆」の他に、大奥には御伽おとぎ坊主」という者がいた。剃髪・羽織袴姿50歳前後の女性で「将軍付き雑用係」この御伽坊主だけは将軍の命をうけて中奥への出入りが許された。将軍の奥泊りの際、御台所(正室)側室へのとぎ(※将軍の床入り)の連絡役を務めたという。

国立公文書館旗本・御家人Ⅲお仕事いろいろ】の[女中帳<御伽坊主>]によると、御伽坊主とは次のようなものだった。 一部要約・(※)・太字化は筆者(私)による
大奥女中のなかに、剃髪・坊主姿の「御伽おとぎ坊主」という者が数名いた。御伽坊主は将軍の居所であ   る奥(※中奥)にも足を踏み入れ、将軍とともに大奥に入る役目も務めるなど、男女の性差を超えた特異な存在でもあった」
「その仕事は「将軍の子づくりのお世話」「将軍の伽の連絡役」で、将軍が大奥の寝所で御中臈ごちゅうろう(※将軍・御台所<正室>の世話係で、側室の候補になった)と過ごす際には、次の間に控えて言動に聞き耳を立て、御年寄(※老女とも。大奥第一の権力者)に報告したと言われている」
国立公文書館【旗本・御家人Ⅲお仕事いろいろ】貼り付け元  <https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatamotogokenin3/contents/08/index.html>

また、深井雅海『図解 江戸城をよむ 大奥・中奥・表向き』は、「御伽坊主」の職制を次のように説明している。
五〇歳前後剃髪姿将軍付き雑用係羽織袴を着用し、この役のみ将軍の命をうけて中奥への出入りが許された。たとえば、将軍が大奥へ入ったのち忘れ物に気づいた際は、同役に命じて取ってこさせたという。また将軍の奥泊りの際、御台所や側室伽の連絡役を務めたという」

「御伽坊主」の数について、三田村鳶魚『鳶魚江戸文庫36江戸雑録』「副書条々」には、「御本丸女中として御伽坊主五人」「西本丸(世子家定在城※家定はのちの13代将軍)女中として御伽坊主三人」とある。

▲『風俗画報』「御本丸大奥将軍御寝所之図」の「お伽坊主」
左右の部屋に剃髪・坊主姿の大奥女中「御伽坊主」二名描かれている
「白衣の二人の女性は当夜将軍御添臥の役目をもつ御中臈。次の間には御年寄と女中、坊主不寝番をする」(『江戸性風俗夜話 巷談・江戸から東京へー①』樋口清之 河出文庫 昭和63年・1988年)

幕閣付属の給仕「御用部屋坊主」は幕府情報に通じ役得の付届けあり

老中上御用部屋」に出入りの同朋どうほう頭 「老中、若年寄御用部屋」雑用役の同朋衆
江戸城坊主衆の監督者である「同朋頭」は老中の上御用部屋へ出入りでき、老中と諸役人の間で人や文書の取り次ぎに従事した。また「同朋衆」は老中、若年寄の御用部屋の雑用を担当、公文書を関係の役人届ける役も担ったので、大名諸藩の外交担当職「江戸留守居役聞番」は、同朋衆との関係を築いて情報収集につとめた。そのため諸藩の留守居などは、御用部屋坊主親交を結び、事前に幕府の決定などを知ろうとして、さかんに付届けを行った。

御同朋格御用部屋御坊主御用部屋御坊主幕閣付属の給仕で老中若年寄に接近して、政治の機密を仄聞そくぶん(※噂に聞くこと)することもあるので、諸大名の聞番御留守居御用部屋御坊主との関係を築かなければ、情報入手が遅れて役目を果たせなかった。それで付届けが多い」(『江戸巷談 藤岡屋ばなし続集』「大名のお弁当部屋」)

御数寄屋坊主は、他の坊主同様に世襲だったが、茶道に関する仕事柄、茶の家筋でなければならなかったので、他の御坊主のように転職することがなかった。(中略)御数寄屋坊主二十俵二人扶持で、御番入りをすれば、十俵一人扶持収入増加四季施しきせ(※季節の衣服の支給)と役金四両が支給され、臨時の拝領もあった。さらに茶道にたしなのある諸大名・諸旗本への出入りし、彼らと子弟関係もを結ぶこともあるため特別収入もあった。従って、余裕のある暮らしをしておりました」(『鳶魚江戸文庫36江戸雑録』「御坊主のはなし」)

「大名家お出入坊主」表坊主・御数寄屋坊主への付届けと袖の下

大名給仕役「表坊主」は複数藩と私的専属関係の「大名家お出入坊主」
江戸城に登城した諸大名に給仕をする御坊主には、奥坊主表坊主がいて何阿弥と阿弥号を名乗った表坊主複数の藩と専属的関係を結び、それらの大名から付届けを受けていた。そして付届け額が少ない場合には、大名に意地悪をして仕返しすることがあった。(『江戸巷談 藤岡屋ばなし続集』※要約)

江戸城に登城する大名の弁当は家来が持参して、屋敷出入りの表坊主にことづけたが、表坊主は大名家から貰っている金品に不満があると、大名に弁当を渡すのを遅らせた。それに気づいた大名家では、以後相当の金品を渡すようになった。「坊主は調子に乗り、大名屋敷へちょいちょいゆすりにいったが、糧道を断たれるので言うなりに金を出した」という。(時代劇を考証する―大江戸人間模様―』稲垣史生 旺文社文庫 1983年<昭和58>※要約)

そんな表坊主たちは「大名家お出入坊主」で、金銭や物品をねだり大名屋敷に御機嫌伺いをした。彼らが持参した手土産のなかで大名の歓心を買ったのが、一両二分程度の「枕絵」本で、面会できれば大名から七両二分貰えるため、安い買い物だったという。(『鳶魚江戸文庫36江戸雑録』「御数寄屋坊主」※要約)

茶坊主「御数寄屋坊主」諸大名からの袖の下」で蓄財
御数寄屋坊主は諸大名の支配的立場にあり、袖の下をむさぼった。大名から貰った冬は黒縮緬の各諸侯御定紋附(夏は黒絽の諸侯御定紋附で出懸けた。また盆暮はもちろん、なにかと付届けをもらって財をなした。(鳶魚江戸文庫36江戸雑録』「御数寄屋坊主」※要約)

大名の猟官運動でも袖の下」の御数寄屋坊主 
大名の猟官運動奥右筆おくゆうひつ(奥祐筆)御数寄屋坊主袖の下をとった話を紹介しよう
奥祐筆若年寄の配下で、老中・若年寄からの諮問に答申したり、実務官僚からの問い合わせ回答し、機密文書の作成や記録なども行っていた。そして奥祐筆は大坂御加番の取り扱い担当者だった。

幕府直轄の大坂城には「大坂城代」が置かれ、大坂城の守衛と諸役人の統率、西国大名の監察を行った。城代の下には副城代格の「大阪御加番」が設置、さらに幕府軍の中心的「大番」が置かれた。そして大番の加勢組織として「加番」が置かれたが、大番と加番は一年交代制であった。加番には1~2万石の譜代大名が任命された。

『増補幕末百話』「袖の下時代御数寄屋坊主」の大名家家臣の回顧談によると、藩主の「加番」入りを志願して奥祐筆に50両を渡し、さらに50両を追加した。しかし利目が薄いと感じて 大名自ら50両を渡した。「そしてその間で旨くまた調子を取るのが御坊主」だという。

袖の下を多く渡した大名家が加番入りに選ばれるので、加番入りの決定が下されるまでの間、奥祐筆御数寄屋坊主の機嫌を取り、「大層な物入り御馳走をしたり、金を掴ませたり、チヤホヤしたものです」
こうしてようやく「御老中進達済みとなると、御用召の御沙汰」があり、安心したという。

▲数寄屋坊主
粟田口桂羽 [原図]『御茶壺之巻』,[狩野友信] [模写],[18–].                   国立国会図書館デジタルコレクション インターネット公開(裁定) https://dl.ndl.go.jp/pid/2540806

御数寄屋坊主が「藩主生存装い病気届・末期養子願の偽装工作」

嫡子のいない大名が死去した場合、棺に朱を入れて遺体を保存して死亡を秘匿、その間に跡目の養子決めてから「藩主病気届」を老中に提出する。これを受けて若年寄大目付が「御判見届)」のために大名屋敷を訪問した。
御判元見とは、末期養子申請者である藩主(判元)の生存と末期養子申請に不備がないかの確認作業だ。そしてこの時に所持万端取り仕切るのが、普段から大名家より付届けを受けていた御数寄屋坊主で、御判元見の段取りを進行した。

御数寄屋坊主は若年寄大目付に御馳走を勧めた後、大名の御座間に案内する。そこには枕屏風(金屏風)が折り廻され、あたかも大名が生存中のように模されていた。そして屏風の内側から大名の替玉である用人がソッと「末期養子願」を差し出した。
「これで公辺(※表向き)無事に済みますが、実際は賄賂の力でした。なんでも金の世の中です」(『増補幕末百話』「袖の下時代御数寄屋坊主」要約)

「御数寄屋坊主」の“将軍用宇治茶搬送”に街道筋大名迷惑

「徳川将軍家用の宇治茶」の新茶を産地の京都宇治から江戸城に運ぶため、江戸・京都を往復する「御茶壷道中」は幕府の威光に満ちたもので、茶道の専門職の「御数寄屋坊主」が担当、江戸城と将軍の警護役である「大番衆」が随行した。

そこで、この「御茶壷道中」の御威光ぶりを御数寄屋坊主、大番衆たちの「日記」や「回顧談」から紹介する。ちなみに、「茶壺に追われて どっぴんしゃん♪」の歌詞で知られるわらべ歌「ずいずいずっころばし」は、「御茶壺道中」の御威光にあわてふためく街道筋の模様を歌ったものだともいわれている。

▼【御茶壷道中の絵巻
粟田口桂羽 [原図]『御茶壺之巻』,[狩野友信] [模写],[18–]. 国立国会図書館デジタルコレクション リンク先 https://dl.ndl.go.jp/pid/2540806

将軍家家紋の荷が「宇治茶」 駕籠は「数寄屋坊主」

随行役の「大番衆」

「下に居ろう~」御茶壷の威を借りる〝鼻摘みもの〟の御茶壷道中
御茶壷道中の一行は江戸城の大手門を出ると、「下に居ろう~下に居ろう~!」の掛け声で通行人を払いながら、生産地である京都の宇治をめざした。

街道で「御茶壷道中との出逢い回避」する大名駕籠
街道で一行に出逢った大名は、乗物を出て敬礼しなければならないので、傍道わきみちへ避けたくらい、豪勢に威張ったものだった(『鳶魚江戸文庫36江戸雑録』「数寄屋坊主」) 
御茶壷は大名にとっては鼻摘みもので、道中で出逢いそうな時は、寺へ逃げ込んで遣り過ごす大名もいれば、鼻薬(※賄賂)を配って無事を祈るものもあり、気楽で威張れて、下に居ろで御入用お構いなし(『増補幕末百話』将軍の御召料御茶壺)

藩内通過の「御茶壷道中を歓待」する大名家
御茶壷道中の一行が藩内を通過する大名家では、一行に歓待の意を表した。街道の宿泊先には藩家老が挨拶に参上。一行は街道各地の御馳走を食べ飽きるほど食べたという。
例えば、小田原藩(神奈川県)大久保家は茶壷を城内へ入れ、町奉行が一行を出迎えて案内、家老用人役が挨拶に罷り出た。藩主在国の場合は、藩主自ら出迎えた。『増補幕末百話』「将軍の御召料御茶壺」の御数寄屋坊主は、「御茶壺の威を借りる」とはこういうことだと述懐している。

搬送された御茶壺は「江戸城冨士見櫓」に収納
旧暦4月頃に江戸を出発した御茶壷道中の一行は、7月頃に江戸城に戻り、冨士見櫓に御茶壷を納めた。

冨士見櫓

冨士見櫓に納入される御茶壷

粟田口桂羽 [原図]『御茶壺之巻』,[狩野友信] [模写],[18–]. 国立国会図書館デジタルコレクション リンク先 https://dl.ndl.go.jp/pid/2540806

「奥坊主小普請組河内山宗俊」水戸藩ヤミ富くじを恐喝し牢死

では今回の「江戸城坊主衆」の最後に、虚実ないまぜに伝わる悪名高き「奥坊主小普請組河内山宗俊」を紹介しよう。

拙著『好奇心まち歩きすみだ歴史散歩』【浅草駅・吾妻橋・東駒形・本所・・向島・本所吾妻橋】コース 「河内山宗俊の水戸藩恐喝事件」

「河内山宗俊恐喝事件水戸藩下屋敷」跡の隅田公園(墨田区)
11代将軍家斉時代の文政6年(1823)江戸城奥坊主小普請組河内山宗俊による「水戸藩恐喝事件」が発生、その舞台となったのが、ここ本所小梅下屋敷である。奥坊主とは江戸城内において将軍、大名に御茶を出す係で、小普請組は非役職の者で小普請金という上納金を課せられていた。

藤岡屋由蔵『藤岡屋日記』(宗と表記)は事件を次のように記している。富付(富くじ)興行は幕府の許可が必要だが、水戸屋敷においては内輪で富付が行われていた。これを知った宗俊は、手に入れた富札をもって水戸屋敷に出向き、「いくら買っても当たらないので、カネを貸してほしい」とゆすりにかかった。
後日、水戸藩宗俊カネを渡す一方で、8代藩主斎脩が江戸城で老中に告げたため、町奉行が宗俊など計17名逮捕した。しかし、その後宗俊牢死した。(宗と表記)藤岡屋由蔵『藤岡屋日記』(宗春と表記)は事件を次のように記している。富付(富くじ)興行は幕府の許可が必要だが、水戸屋敷においては内輪で富付が行われていた。これを知った宗俊は、手に入れた富札をもって水戸屋敷に出向き、「いくら買っても当たらないので、カネを貸してほしい」とゆすりにかかった。
後日、水戸藩宗俊カネを渡す一方で、8代藩主斎脩が江戸城で老中に告げたため、町奉行が宗俊など計17名逮捕した。しかし、その後宗俊牢死した。

三田村鳶魚「水戸殿の富突き」(宗と表記)には、無許可で富くじを外部に売ったとはいえ、場所が御三家水戸殿の小梅下屋敷なので、幕府としても簡単に手が出せないでいた。
そこへが小梅下屋敷に現われ、500両をゆすりとったという評判が広がったため、検挙はしたけれど、始末に困り獄中で死なせたのだとしている。

この宗俊水戸藩恐喝事件脚色化され、明治初年以降『河内山実伝』『東侠客あずまきょうかく河内山』が出版され、巷談『天保六花撰』などで義賊扱いされ伝説的悪人になった。

架空人物説もある非役の御家人「奥坊主小普請組の河内山宗俊」とは?
芝居や講釈で有名な河内山宗春(※『鳶魚江戸文庫36江戸雑録』は宗、『藤岡屋日記』は宗と表記)を「御数寄屋坊主」と記述するものがあるが、宗俊は「奥坊主の小普請こぶしん組」※であった
 ※旗本で役職につけない非役の者は「寄合」、御家人の場合は「小普請組」に所属。
  非役には手当がつかず家禄だけ支給、非役の旗本や御家人は逆に小普請金を上納した。

「彼(※宗春)の祖父宗久は、奥御坊主組頭に進み、父宗筑奥坊主であった。宗春幼年で相続したために、小普請入り(早くに親が死んで家督を継いだが幼年のため御役に出られず小普請入りをした「幼年小普請」)になって、見習に出る機会を得ず、就職せずにしまった」 
「宗春の家は四十人扶持の家であったから、非役になっても、現米七十二石は貰える。御坊主の中では裕かな方であるのに、放蕩無頼な宗春には、貰い足りない。女犯僧を脅喝するだけでは足りず、ついに水戸家をゆすって捕らえられ鳶魚江戸文庫36江戸雑録』)     

なお、『江戸巷談藤岡屋ばなし』の著者鈴木棠三氏は、「河内山宗俊一件」の項で「宗は実在の人物か?」について次のように記している。(※)は筆者(私)による
「講談『天保六花撰』の主人公として名高い悪徒河内山宗については、実在は疑わしいとした説もあって迷わざるを得ないが、青山久保町の高徳寺に「河内山宗春」と記した墓石が存在し、「文政六年(※1823 11代将軍家斉)七月二十二日河内山氏」と記され、河内山家は同寺歴代の檀越だんおつ(※檀家)であったと記した物もある。藤岡屋日記では「文政八年(※1825)酉年五月落着」として、奥坊主河内山宗病死、「存命ニ候ヘバ死罪」とある」

 

タイトルとURLをコピーしました