江戸の橋には幕府直轄で架けられた橋と民間による橋があった。幕府直轄の橋の維持管理は、幕府の負担によるものと町の負担によるものがあり、これらの橋には清掃・警備・保守管理を担う「橋番所」が橋詰に設置された。
両国橋には橋の上に「橋中番所」も置かれ、身投げ防止の役目を担い、江戸の川柳に「橋の番 たしかに投げた 水の音」と詠まれている。
私は『土木施工』連載「なぞのスポット東京不思議発見」と『国づくりと研修』連載「散歩考古学大江戸インフラ川柳」に「両国橋の架橋、維持保守管理、橋番人」を掲載しているので、これらの記事と参考文献で「両国橋」について説明する。
また、両国橋架け替え工事助役の沼田藩主真田信利が、橋材代金を受け取りながら用材を搬出せず、領内での品行不良もあって除封された事件も紹介する。
このブログの予告編的なYouTubeショート「両国橋上の橋中番所」をリンクする。
なお当ブログには「両国橋火の番三田藩九鬼家」も別途掲載しているので、御参照下さい。
https://koukisin-sanpokoukogaku.com/blog/?p=2363
【参考文献】
『東京市史稿』東京市・東京都編集発行 橋梁篇1、2昭和28年(1953) 市街篇40昭和30年(1955) 産業44平成13年(2001)
中央区文化財調査報告書第5集『中央区の橋・橋詰広場ー中央区近代橋梁調査ー』
中央区教育委員会 平成10年(1998)
『墨田区史前史』墨田区役所 昭和53年(1978)
『墨田誌考 上』墨田区役所企画部広報課編集 墨田区役所発行 昭和50年(1975)
西村重長・鈴木春信画『絵本江戸土産』佐藤要人解説 有光書房 昭和50年(1975)
『江戸巷談 藤岡屋ばなし』鈴木棠三 ちくま学芸文庫 筑摩書房 2003年(平成15)
『増補 幕末百話』篠田鉱造 岩波文庫 岩波書店 1996年(平成8)
『日本霊異記』板橋倫行校注 角川文庫 角川書店 昭和48年(1973)
『江戸の夕栄』鹿島萬兵衛 中公文庫 中央公論新社 1997年(平成9)
『江戸の町かど』伊藤好一 平凡社 1987年(昭和45)
『岡本綺堂 江戸に就いての話』岸井良衛 青蛙房 昭和33年(1958)
『江戸の盛り場』海野弘 青土社 1995年(平成7)
「明暦の大火」教訓に本所へ市街地拡大で隅田川に「両国橋架橋」
両国橋の架橋年・橋名の由来、橋位置の変遷
天正18年(1590)江戸に入った徳川家康は、江戸城防衛のため、自然の要害である荒川の日光道中の隅田川に「大橋」(現・千住大橋)、東海道の多摩川に「六郷大橋」(現・六郷橋)を架けた。
その後、明暦3年(1657)に「明暦の大火」がおきると、幕府は江戸市街地の拡大に着手、大名・旗本屋敷の移転先として、隅田川東岸の湿地帯を掘削整備した。この本所(墨田区)・深川(江東区)開拓のためと、災害時の江戸市中からの避難路として隅田川に「両国橋」を架けた。
明暦の大火『武蔵鐙』
両国橋の架橋年については、万治3年(1660 4代家綱)竣工説、寛文元年(1661)説があるが、『徳川実記』万治2年(1659)12月13日の件に、「此日 浅草川(※隅田川)新架の橋成功し 名づけて両国橋といふ」とあり、『中央区の文化財(三)橋梁』は「万治2年説がもっとも信憑すべき説である」とする。
なお橋名の「両国」とは武蔵国(東京都)と下総国(千葉県)のことだ。武蔵と下総の国境は、架橋当時は利根川(現在の江戸川)だったが、それ以前は隅田川が国境だったことに由来する。
両国橋は、工事中は「大橋」「向島の橋」、「ふた国の橋」と呼ばれていたが、完成後に「両国橋」と定められた。両国橋を詠んだ江戸の川柳に「橋杭で国と国とを縫い合わせ」とあるのは、隅田川が昔は武蔵と葛飾の国境だったことを意味している。
当時の両国橋は長さ94間(170.8m)で、のちに96間(174.5m)に拡幅、幅4間(7.2m)であった。
なお江戸時代の両国橋の位置について、『中央区の文化財(三)橋梁』は「現在の位置より100メートル以上、下流にあり、これが明治中期までの両国橋」とし、「明治37年(1904)の架け替えで、現在の位置になった」と記載。
中央区文化財調査報告書『中央区の橋・橋詰広場』は、明治37年の橋は関東大震災で破損、昭和7年(1932)に現在の橋が「かつての位置より20メートル上流に架設されている」としている。
両国橋再架橋役の沼田藩主真田信敏「用材代金受領も搬出せず処分」
万治2年(1659 4代家綱)に架けられた両国橋は、天和元年(1681 5代綱吉)に架け替えられることになり、架替御手伝役(助役)に沼田藩主真田信敏、普請奉行に松平采女、船越左衛門が任命された。ちなみに信敏は真田幸村の兄信之の孫で、信澄とも称した。
真田は架橋用材を国元(上州・群馬県)の沼田山から搬出するとして代金を受領したが、搬出しなかった。このため用材が不足、両国橋の架け替え工事ができなくなってしまった。
そこで幕府は5月に真田信敏を除封、山形藩奥平家に御預け処分とした。そして普請奉行の松平采女、船越左衛門を閉門処分(門を閉ざし窓を塞ぐ罰)とした。
真田の処分理由には「架替御手伝役としての勤役不足」と「日頃の不行跡、藩政の悪さ」があった。なお、信敏は元禄元年(1688 5代綱吉)に死亡している。
信敏の処分では、長男信音も父に連座して、赤穂藩浅野家に御預けとなった。その後、元禄元年に赦免され1000俵を与えられた。しかし二代あとの政之丞のとき追放され、真田家は絶家となった。
幕府直轄の「御入用橋」と町人が建設維持管理の「町橋」
江戸の橋には「幕府直轄橋」と町人が建設維持管理する「町橋」があった。そして、幕府直轄橋の維持管理には2種類の形態があった。
一つは江戸城の内濠・外濠に架けられた浅草橋、数寄屋橋などで、幕府の費用で架け作事奉行が担当した。もう一つは町々に架けられた日本橋や両国橋などは、町奉行が担当し、架橋改修費用は用達商人が請け負うので「御入用橋」といった。
幕府は道路の維持管理と同様に橋の取り締まりも厳重に行った。橋の取り締りは町奉行所内の定橋掛の担当で、両国橋など本所・深川の橋は本所奉行(本所見廻り)が支配した。
橋の上に商人・乞食、牛馬が留まることを禁じ、御入用橋は1カ月に2回雨の降った時に洗え、橋床の腐朽を防止するためよく清掃せよ、毎月2回同心を検分に廻すという触や法令を出した。橋の普請には大金を要するので、隅田川の両国橋・永代橋・新大橋・大川橋については、荷を積んだ車の通行を禁止した。
本所奉行が管理する両国橋は、役船、水防夫を置き、寛文11年(1671 4代家綱)には水防規定が出された。享保4年(1719 8代吉宗)に本所奉行が廃止され、両国橋は町奉行の管理となり、両国橋東西の広小路を見世物に貸し付けて、その課銭を水防費に充当。享保14年(1729)になると、広小路の商売の代償として、両国橋の水防を町人に請け負わせることにした。
しかし、幕府は財政悪化で橋の維持管理が困難になり、元文元年(1736 8代吉宗)に両国橋、永代橋、新大橋、日本橋、京橋など主要道路の御入用橋を町人の定請負制にして出費を抑えた。
寛保3年(1743 8代吉宗)には両国橋、永代橋等の水災による破損を防止するため、高速で凌波性に優れた鯨船(勢子船)2艙を本所一つ目石置場際(千歳1丁目)に停泊させた。
永代橋は普請料の名目で渡橋銭(一文)を徴収。延享元年(1744 吉宗)には新大橋も渡橋銭(二銭)を取ることになった。
一方、民間の橋には組合持橋と一手持橋とがあった。組合持橋とは、組合を結成して維持管理した橋で、数ヶ町、武家同士、武家と町、さらには寺社が加わって組合を結成。一手持橋は、武家、寺社、町が独自に所有する橋で、大部分が大名邸に沿った堀川に架けられ、費用は大名が負担した。
御入用橋橋詰の「橋番屋」 両国橋の上には「橋中番所」も
江戸時代、町人地の木戸際などに治安維持や消防、町内の事務処理や寄合のために自身番屋と、木戸の開閉などを行う木戸番が設置され、その維持費は町入用で賄われた。
町奉行が担当し、費用は用達商人が請け負う「御入用橋」には、自身番屋によって掃除人足の番人(通称・番太郎)が詰める「橋番屋(橋詰番所)」が橋の両側か片側の橋詰に設置されていた。
両国橋には東両国(向こう両国・墨田区)と西両国(両国・中央区)の両橋詰と橋の中央にも番屋「橋中番所」が置かれ、以前この場所にあった「牛島の渡」の渡し守を番人にした。中番所の隣には法令交付の「高札」が立てられていた。
橋番人は、町人地では橋台(橋詰)にいる髪結・床商人が勤め、武家地では武家地の番屋である「辻番」に詰める辻番人が兼務した。
番人は橋の掃除・警備・破損検察を行った。橋番屋には自身番同様に突棒などの捕物道具が装備され、捕縛人を一時拘留した。行き倒れや急病人、捨て子なども橋番屋が世話をして届け出た。また、民間人が願い出て架けた橋では、橋番人が武士を除く町人から橋銭を徴収した。
▼西村重長『絵本江戸土産』「両国橋の納涼」「中番所」
火除け地「広小路」を水防費用捻出のため貸出し「盛り場」に
幕府は両国橋下流の堅川南岸(墨田区千歳1)に、流木などから橋桁を守る水防船の「鯨船」を配置、洪水になると、橋上に大石や水入り樽を置いて重しにした。
さらに幕府は東西の橋詰に火除け地「広小路」を設けたが、享保4年(1710 8代吉宗)両国橋を町奉行の管理い、水防費用捻出のため広小路を民間に貸し付けた。広小路には仮設の水茶屋や見世物小屋が設けられ、江戸を代表する盛り場となる。
江戸っ子はそんな両国橋を「参千両」と詠んだ。朝は西広小路の青物市、昼は両広小路の見世物、夜は納涼船・茶屋で各千両、計参千両のカネが落ちるという意味で、俳人の宝井其角は「下見れば及ばぬ事の多かりき、上見て通れ両国の橋」と詠んでいる。
隠居仕事の「橋中番所」は「葬列数の確認」と「身投げ防止」が役目
両国橋が架けられた場所は、「牛島の渡し」という渡し舟があった所で、両国橋ができると渡し守をしていた二人を「橋番人」に採用、給金を与え宅地を支給した。
両国橋では天和3年(1683 5代綱吉)から橋番人が請負制になった。東西の橋詰に「辻橋番所」が設置され、突棒・さすまた・松明・早縄(盗縄)・提灯を備えた。
さらに「真ん中に番所を据えて、夜陰の非常をいましむ」ために、夜間に番人が詰める「橋中番所」が橋の中央に設置され、その隣に法令交付の「高札」が立てられた。
天保5年(1834 11代家斉)ころの両国橋の橋中番所は、身投げを止めるのが役目という程度のものであった。川柳の「橋の番たしかに投げた水の音」(柳多留二)は、中番所の番人が身投げの水音を聞いたというものだ。
中番所の番人は、幕府からは「葬礼を数えて置け」と命令されているだけで、ほかには何の用もなく、年寄の格好の隠居仕事だったという。
そんな両国橋の中央に設置された「中番所」について、父親が天保5年(1834 11代家斉)に橋番人だったという人の回顧談が『増補幕末百話』にあるので紹介しよう。
『増補幕末百話』「両国橋上老人の生活」
一部抜粋要約 小見出しと(※)は筆者(私)による補注
天保5年(1834 12代家慶)の頃、両国橋の中央に、自身番が架けた橋番小屋があり、後に橋の袂に移された。
「放生会用鰻」売りが黙認
橋中番所には自身番に誘われて番人役になった爺さんや婆さんがいて、往来の見張りや往来の注意をしていた。月給は一分だったという。橋番人には黙認された役得があり、8月15日の放生会(※捕らえた生類を買い集めて開放する儀式)で使われる鰻や亀を飼って売ることが黙許されていた。
※放生会とは、仏教説話集『日本霊異記』にある「亀の命を贖いて放生し、現法を得て、亀に助け らるる縁」にちなむもので、この「放しうなぎ」用の大小の鰻を信心深い人々が、朔日や15日に南阿弥陀仏を唱えて、橋の上から隅田川に落として放していたという。
「大きい鰻は八文で小さいメゾッコは四文だが、メゾッコは下の水に撲たれて大概死んでしまうもんだそうで、放しうなぎではない。これじゃア殺しうなぎです。・・・それとも御存知なく後世をお願いになりますが、すべて浮世の物はこうなんです。裏から見ると万事これ」
強風が不安 仕事は「葬礼数の確認」
橋中番所は橋の上に置かれた「ヤニッコイ小屋」なので、「大風が怖くと吹きとばされるかもしれないので、のちに橋際へ移すことになったんでしょう」。幕府からは「葬礼を数えて置け」といわれるだけで、ほかにはやらなければならない仕事もなく、気楽なものだったという。
親切男の正体は「巾着切り」
夜中に残り物の鰻飯をくれる者がいたが、「きっと泥坊か巾着切り(※スリ)なんです」。両国花火の時に男から袋を預けられので、こっそり中を覗いてみたら紙入れ(※財布)や巾着袋でがたくさん入っていたそうで、その男は巾着切りだったという。
「旗本屋敷組合辻番」も老人仕事で内職に「つまようじ作り」
武家地には武家が設置し維持費を負担した辻番があり、大名一家が設置した「一手持辻番」、近隣の大名や旗本が共同で設置した「組合辻番」があった。
両国橋の橋中番所の番人が鰻や亀を売っていたように、旗本の組合辻番の番人も同じように老人で、内職に「つまようじ作り」をしていたという。
『江戸の夕栄』に「旗本の組合辻番所にて壮者は稀にして老人多く、内職には小楊枝削りなどやりをるなり」とある。