大名火消とは?「両国橋火之番三田藩の封鎖」を「避難の藤堂家が抜刀突破」炎上崩落で犠牲者多数

大名火消火之番

天正18年(1590)徳川家康が豊臣秀吉に江戸に移されてから11年後の「慶長6年(1601)駿河町の民家より出火。江戸全町焼亡、人多く死す」(慶長見聞(けんもん)録)。これが江戸で最初の大火(『江戸の火事』「江戸大火年表」黒木喬)で、家康が幕府を開く2年前のことだ。
そこで火事の季節!火の用心!というわけで、今回は江戸時代の消防・火消の話、それも「町火消」に比べると余り知られていない(と思われる)「大名火消」を取り上げる。

江戸幕府の「火消制度」は多岐にわたっているので、最初に「大名火消」旗本「定火消」「町火消」「江戸の防火対策」について、全国建設研修センター『国づくりと研修』連載「散歩考古学 大江戸インフラ川柳」の拙稿「本郷もかねやすまでは江戸の内」で説明する

そのあとに「大名火消」「火之番・火番・火の番」(火防・所々火消)「方角火消」を説明。「方角火消火之番は、あくまで施設を守るのが主目的で、このことをよく示す事件」(『新編千代田区史通史編』)とされる「両国橋火之番三田藩の封鎖と津藩の武力突破 その直後の両国橋炎上崩落」を紹介する。 
私はこの惨事を東京新聞連載「東京ふるさと歴史散歩」に掲載したが、この連載は東京新聞の意向で「散歩部分」にスペースを割く構成だったので、ブログでは書下ろし記事にした。

そして最後に、「大名火消出動」の模様を「臼杵藩江戸勤番の日記」から引用する。大名火消「御防ぎ御役」と記すなど、「出動指令の文言や出動の様子」が描かれていて興味深い。

【関連記事】当ブログ「好奇心散歩考古学」の「江戸の火除けまじない」はこちら
https://koukisin-sanpokoukogaku.com/blog/?p=3110

この記事の予告編的【YouTubeショート動画松本こーせい】両国橋火之番」をアップしたのでリンクする。

【参考資料】
「元禄変異記」『東京市史稿 変災編第四』東京市役所 臨川書店 昭和50年(1975)
『江戸の火事』黒木喬 同成社 1999年(平成11)                       『新編千代田区史通史編』「防火体制 火之番」千代田区 平成10年(1998)         「大名火消」池上彰彦『江戸東京学事典新装版』三省堂 2003年(平成15)※1987年の新装版
『江戸火消年代記』藤口透吾編著 東京消防庁監修 創思社 昭和37年(1962)
『江戸ッ子』「火消屋敷の殿様」三田村鳶魚 早稲田大学出版部 昭和8年(1933)(鳶魚江戸文庫9『江戸っ子』朝倉治彦編 中央公論社 1997年(昭和62))
『三田藩九鬼家年譜』高田義久編 平成11年(1999)                    『勤番武士の心と暮らし 参勤交代での江戸詰中日記から』酒井博 酒井容子 文芸社 2014年(平成26)

幕府の消防政策は「江戸城警固と武家屋敷防火」

全国建設研修センター『国づくりと研修』「散歩考古学 大江戸インフラ川柳」          平成20年(2008)1月
▼本郷まで続く防火建築「塗屋土蔵造り・瓦葺屋根」の街並み

▼旗本・御家人動員「江戸城警固部隊」から大名緊急招集「奉書火消」へ

▼大名16家を「大名火消」に任命 旗本「定火消」創設 家屋取り壊す「破壊消防」

町人地対象「町火消」誕生 町の番小屋「自身番」に火見櫓・消火用具設置

幕府は「火事は戦時の予習・変乱の危機」と認識

※一部抜粋要約 ()補筆・注 「」(※)は筆者(私)による

火災に乗じた「変乱」警戒 「城中の火災時は登城せず指示に従い変事に備えよ」 幕府は火災よりも火災に乗じて起こる変乱がこわかったらしい。                 寛永5年(1626 3代将軍家光)「城中で火災そのほか何があっても城外の者は出向いてはならない。当番と常勤の者だけが登城し、他の者は定められた場所で指示に従え。変事の場合は側近と目付のほかは奥へ行ってはならぬ」「大奥火災の時は、側役の指揮で目付使番が奥に入れと」の指示が出ている。(『江戸の火事』黒木喬)

家光「江戸城火災時に防火で人命を損なうな 門の警護を厳重に」
寛永11年(1634)西丸焼失し、16年には本丸全焼。3代将軍家光は「火事は天災であるから、防ごうとして人命を損じてはならぬ門を固めて厳重にせよ」と命じたという。この言葉にも治安重視の気持ちがあらわれている。(『江戸の火事』黒木喬)

【江戸城跡】「皇居・東御苑界隈」天守台・冨士見櫓・大手門・桜田門

『まんがホーム』「新TOKYOさんぽ」芳文社 2000年(平成12)10月号

私のブログ「好奇心散歩考古学」は、米英独仏伊など海外42か国の人々(在留邦人?)も読者なので、私が英字雑誌tokyo journalに執筆した「散歩考古学 皇居・丸の内界隈」のイラストマップも併せて紹介する。この記事は編集部による英訳版East Meets West in Edoも同時掲載された。

このイラストマップと英文記事は私が講師をつとめたJICA(国際協力機構)「江戸東京のインフラ整備」の講座資料としても活用した。

私のJICA(国際協力機構)講座については当ブログの「講座・催事・放送出演」で紹介https://koukisin-sanpokoukogaku.com/blog/?page_id=772

 ▲『tokyo journal』vol.26 東京ジャーナル 平成19年(2007)

江戸城火災で焼失した本丸天守閣と本丸の代用「冨士見櫓」

天守台 下段の黒い石垣は家光期のもの。後方石垣は吉宗期に積み替え。

▲明暦の大火で天守焼失後、本丸の代用とされた「富士見櫓」(「皇居一般参観」時に撮影)

幕府は火事を戦時予習であるように考え、特別に警備を要する出来事のようにみている。火事が政治的に考慮すべきものと考えていたのだ。
火事といえば火付で、由井正雪謀反(※1)を企てたのも、放火を手段としている。泥坊が物取りのために放火することは幾度もあったが、政治的な意味のあるのは、正雪の一件だけであった。それで町奉行のほかに火付盗賊改(※2)も拵えてあった。(「火消屋敷の殿様」三田村鳶魚)        (※1)「由井(※由比とも)正雪の乱」「慶安の変」。大名の改易(領地没収)で増大した浪人たちの不満を背景に、慶安4年(1651 4代将軍家綱)に軍学者由井正雪が幕政を批判して企てた幕府転覆計画。        (※2)「盗賊改」は寛文5年(1661 4代家綱)、「火附改」は天和3年(1683 5代綱吉)に設置され元禄12年(1699)に廃止。15年「盗賊考察」として復活、「博徒考察」が新設され、16年に「火賊考察」も復活して三分科。宝永6年(1709 6代家宣)に「盗賊火附改」と併称、両役兼務となり、享保10年(1725 8代吉宗)から一人役となる。

また由井正雪事件の翌年、承応元年(1652)には「二代将軍秀忠夫人法事 増上寺放火老中暗殺計画」が発覚、浪人戸次庄左衛門が斬罪になっている。

島流し放火犯が密告すれば「減刑」 放火犯が自首し仲間密告すれば「罪不問」      幕府は島流しの放火犯を江戸に戻し放火犯を密告させ、罪を軽くするなどして検挙につとめた。

さらに「八百屋お七火事」の翌天和2年(1682 5代綱吉)には「火付け訴人の布令」を発布。「火付け犯人を見つけた者はすべて届出るべし。火付けした者も自首して仲間の火付け科人を訴えれば罪を許し、褒美を出す」とした。(『江戸火消年代記』藤口透吾)

多発する火事のなかには放火の疑いもあり、町奉行が詮議に力を入れて検挙に乗り出し、16人もの放火犯を検挙した(「万天目録」)。その中には烟火之介を名乗る者もいたという。

このような放火犯続出の背景には「素浪人や町民の武家に対する反感というか、幕府の町民をないがしろにした治世の忿懣(ふんまん)が特に武家火消に向けられたのかもしれない。記録に出ている殆んどの出火や類焼大名屋敷や武家屋敷の与力、同心に及び、またその頃、大名火消定火消揶揄した歌が江戸の町に流行し出した。「あらおかしやな火消衆、行列はさても見事なり」(以下省略)(『江戸火消年代記』藤口透吾)

【関連】「目立ちすぎる火事装束」禁止令                           明暦の大火(1657年 ※明暦3年4代家綱)のころの火事衣装は、革羽織主君をはじめ騎馬の者5、6人で、天和の大火(1682年 ※天和2年5代綱吉)になると、分の者はすべて革羽織で、木綿の羽織足軽中間(ちゅうげん)しか着ていなかった。                      元禄3年(1690年 ※5代綱吉)に「火事羽織がめだちすぎるので絵もよう無用 紋ばかりにすること。えり頭巾絵もようつけないこと」という禁令が出て、その後もくりかえされた。(『江戸の火事』黒木喬)

▲出典不詳

▲「大名の火事装束」火事兜・火事頭巾・火事羽織 拙稿東京新聞「東京ふるさと歴史散歩」

「番方火消」 大名「奉書火消」「火之番・方角・各自火消」

「江戸城の消火・防火」主体で「旗本・大名の軍役的出動」に依存
(※)は筆者(私)による
幕府は当初、「番方」(※軍事担当)の大番(※江戸城・江戸市中警備書院番(将軍警護騎馬親衛隊)、鉄砲百人組(甲賀・根来・伊賀・二十五騎組)などを火事場に動員した。  

さらに寛永6年(1629 3代家光)には、参勤交代江戸在府大名にも出動を命じた。これは火事の際に老中奉書(※主人の意を受け従者が下達する文書=将軍の命令書)で大名に持ち場を命じる奉書火消」であった。                                    「この奉書火消は1666年(寛文6 4代家綱)設立のロンドン消防隊に先立つ37年前で、世界最古の消防隊」(『江戸火消年代記』藤口透吾)だという。

このように「江戸初期の江戸の消火体制は、江戸城の消火・防火が主体で、江戸城の番方の旗本および老中奉書による小大名の出動という軍役的なものに依存していた」(「大名火消」池上彰彦)

大名火消「火之番・火の番・火番(火防・所々火消)」と「方角火消」「各自火消」
  一部抜粋要約 (※)と[]は筆者(私)による

奉書火消を恒常化し持ち場定めた狭義の「大名火消」
寛永18年(1641 3代将軍家光)の大火(※江戸の大半を焼失した桶町大火)をうけ、20年に6万石以下の大名16家を4組に編成。1万石につき30名の火消人足を出して10日交代の当番制とした。「大名火消」の始まりである。

「これが狭義大名火消で、それ以前の奉書火消恒常化し、持ち場をそれぞれ定めて、火元に近い大名が出動して消火にあたることにした」(「大名火消」池上彰彦)                其の後、正保元年(1644 家光)と3年に編成変えを行い、慶安2年(1649 家光)に3隊10家となった。

広義の「火之番」「方角火消」と大名私設「近所火消」
幕府が大名に命じた消防の勤役には「大名火消」「火之番(火防・所々火消)」「方角火消」の三種があり、「近所火消(各自火消・三町火消)」というものもあった。これが広義の大名火消である。(「大名火消」池上彰彦)

大火時の増援「増火消」 大名屋敷自衛的近所火消各自火消三丁火消)」  大名火消には「火之番火防所々火消)」「方角火消」のほかに、「増火消」「近所火消各自火消三丁火消)」というものもあった。
増火消                                           大火の際にのみ特に編成された火消しで、(寛永寺、増上寺)、二の丸米蔵などの警戒にあたった火消のこと。
各自火消
八丁火消などのことをいい、大名屋敷の近く三丁~八丁の間で火災が発生した場合、各屋敷が協力して消火に努めた。この火消しを八丁火消、五丁火消三丁火消ともいい、また見舞火消(主君の親類、菩提寺附近の火災にも出場)とも呼ばれていた。

重要拠点「類焼防止」の大名「火之番(所々火消)」                  一部抜粋要約 (※)と[]は筆者(私)による                         「火之番所々火消」の任務は「幕府重要施設の類焼防止」
火之番」(※所々火消)は広義には「大名火消」や「方角火消」も含むが、狭義には「あらかじめ命じられた幕府の重要施設に出動して類焼させないのが役目」で「他が燃えていても消火活動には参加しない」。そして類焼防止の方法は「火の粉をあおいだり、たたき消す方法」だったと思われる。(『新編千代田区史通史編』)

大名火消のなかで場所がきめられていたものを〝所々火消〟(※火之番)とよんだ。寛永16年(1639 3代家光)の本丸炎上のあと、保科正之(山形)と石川忠総(ただふさ)(近江膳所ぜぜ)に西丸森川重政(下総生実おいみ)に紅葉山霊廟(※初代将軍家康から6代家宣までの霊廟)の警護を命じたのがはじまりだという。(『江戸の火事』黒木喬)

寛永寺常憲院(綱吉)霊廟

増上寺徳川将軍家霊廟

元禄時代(1688-1704)には、江戸城をはじめ寛永寺や増上寺などの寺社、湯島聖堂、浅草などの米蔵、両国橋・新大橋・永代橋などの重要拠点36大名が配置されていた。(『江戸の火事』黒木喬) 今回とりあげる「火之番三田藩の両国橋封鎖と津藩の武力突発」は、この元禄期の惨事である。

火之番元禄期(5代綱吉)に最も多く享保期(8代吉宗)に減少するのは7年(1722)の「上米制による参勤交代」(※)と連動しているものとみられる。  (※)上米制は「享保の改革」のひとつで、享保7年(1722)から9年間実施。大名に1万石につき100石を臨時に上納させるかわりに、参勤交代在府期間半減して参勤交代の負担を緩和した。

そして元文期(※1736-1741 8代吉宗)以降には火之番は定着したようで、大手方・桜田方・ニ丸・紅葉山・吹上・湯島聖堂・上野寛永寺・芝増上寺・浅草米蔵・本所米蔵(2名)・猿江材木蔵火之番が任命された。(『新編千代田区史通史編』)

加賀藩前田家「本郷上屋敷から増上寺へ消火用水の水桶リレー」
『江戸火消年代記』藤口透吾編著)は、「増上寺の専属火消加賀藩前田家による本郷上屋敷から増上寺への消火用水の水桶手渡しリレーの失敗談」を次のように記している。                           一部抜粋要約 (※)と[]は筆者(私)による

加賀藩主前田綱利(※)は所々火消火之番制度が[元禄11年に]確立する以前に、[徳川家霊廟の]増上寺の専属火消(警護役)を仰せつかっていた。
※)綱利は父である4代藩主光高の急死により、3歳で5代藩主となり、2代藩主だった祖父の利常が後見。綱    利自身が藩政を行うのは、元服を迎えた万治元年(1658 4代将軍家綱)以降。

ある時、近くで大火があり増上寺にも火の粉が降りかかってきた。には防火用の井戸がいくつもあったが、綱利は「尊いお寺汚れた井戸の水を掛けては畏れ多い。わが屋敷には清き水が多くあり、その水を運んで火を消せ」といって陣頭指揮をとり、本郷の上屋敷(※文京区・東京大学)から芝(※港区)の増上寺まで一里半(6キロ)の間に、数千人の人足を並べ、水桶リレーで運ばせた。

この無謀な大行列で町は通行止めとなり、大混乱となった。怪我人は出るし水桶の水到着前に半減道はどぶ泥になる始末。増上寺を守りぬいたものの、綱利老中から大目玉を喰らい御役御免を申し渡された。

その後、前田綱利湯島聖堂所々火消(※火之番)となり、この時に「加賀鳶」が生まれた。

本丸炎上で大名「方角火消」 明暦大火で旗本「定火消」設置

寛永16年(1639 3代家光江戸城本丸が炎上、幕府は大名6人江戸城火消を命じた。これが大名火消恒常化の始まりとなる。18年大火では家光自身が大手門で指揮をとり、現場に出動した大目付殉職奉書火消も出動したが江戸の大半が焼失した。             この事態をうけ、老中は家光に「大名火消役設置」を提言。「火消の名人」として知られた奉書火消役の赤穂藩主浅野長直(「殿中松之廊下事件」の浅野内匠守の祖父)ら6大名に相談した。

そして寛永20年(1634)に浅野ら大名16家4組編成「方角火消」を命じた。これが「大名火消」制度のはじまりとされ、1万石あたり30名の火消人足を割り当て、10日交代の当番制とした。以後変更を重ね3代家光慶安2年(1649)3隊10家となった。

明暦の大火契機に幕府直属の旗本火消「定火消(十人火消)」設置
明暦3年(1657 4代家綱)江戸市域の6割を焼失する「明暦の大火(振袖火事)」がおきると、幕府は翌万治元年(1658)寄合旗本(※)4000石以上の旗本4名で編成する直属の「定火消」を設置。八重洲河岸・赤坂溜池・半蔵門外・駿河台・赤坂門外・飯田橋・小川町・四谷門外・市ヶ谷左内町の10ヶ所に「消防屯所」が置かれた。
(※)役につけない非役の旗本で、家禄3000石以上の者および布衣(ほい 御目見以上の者)以上の役職経験者  は「寄合」に、それ以下の者は「小普請組」に編入された。

明暦の大火『むさしあぶみ』

旗本は知行100石以上だが、3000石以上の旗本ともなると、10万石以上の大名家との縁組ができ、江戸と領地に100人程度の家臣を有し、領地に陣屋を設け年貢を徴収。2、3000坪の江戸屋敷を有していた。
「旗本の五、七千石位取る、内福の旗本が選ばれるので、勤めていれば損がいくのですから、金を遣わせるために命じるのです」(「火消屋敷の殿様」三田村鳶魚)

定火消」は、当初は4名だったが拡大を重ね、元禄8年(1695 5代綱吉)最大の15名となった。そして宝永元年(1704)以降は10名になり、「十人火消」とも呼ばれた。 

「両国橋火之番」三田藩封鎖を津藩武力突発直後に両国橋焼失

「火之番」が置かれた幕府の重要施設「両国橋」
『好奇心まち歩き すみだ歴史散歩』松本こーせい 鉱脈社 2016年(平成28)

▼両国橋は「隅田川東岸への避難経路」

▼東西の橋詰に「火除け地の広小路」設置

「幕府重要施設類焼防止役」火之番の「両国橋封鎖」

東京新聞「東京ふるさと歴史散歩」兵庫県の巻 「水戸様火事で両国橋火の番三田藩が封鎖 津藩が強行突破後に焼失」 2008年(平成20)9月13日

『新編千代田区史通史編』「防火体制」は、「方角火消火番は、あくまで施設を守るのが主目的で、このことをよく示す事件があった」として、次のように記している。 
 一部抜粋 (※)は筆者(私)                                  元禄16年(※1703 5代将軍綱吉)11月29日の大火(※水戸様火事)の際、両国橋火番(※火之番)九鬼大和守隆久摂津三田藩3万6000石※兵庫県)は、橋を火から守るため、家来に命じての両端を封鎖した。このため避難民は渡れないまま火に追われた。避難する津藩藤堂家(※三重県)・秋田藩佐竹家奥方女中らを警護していた両家の武士らが九鬼の家臣らを切り伏せ押し渡ると、避難民らが後に続いたが、パニックの最中に橋は焼け落ちたという(『江戸火消年代記』)。

「元禄変異記」に見る水戸様火事「両国橋封鎖突破と焼失崩落」
東京都刊行の史料集『東京市史稿』は、この「両国橋火の番三田藩の両国橋封鎖と藤堂藩らによる避難突破、その直後の両国橋焼失崩落の大惨事」を記した江戸時代の「元禄変異記」を掲載しているので、その記事で両国橋の惨事を紹介しよう。

御三家水戸藩上屋敷が火元の「水戸様火事」とは
元禄16年(※1703 5代将軍綱吉)11月23日「元禄地震」が発生、29日には小石川(文京区)水戸藩上屋敷を火元とする大火災「水戸様火事」余震に見舞われた。水戸家は上屋敷や御成御殿などを焼失、火事は強い南西風により本郷(文京区)の加賀藩前田家も上屋敷や御成御殿(※)などを焼き、下谷(台東区)、浅草に広がった。                              (※)「前田家御成御殿焼失」は当ブログ「御成・通り抜け御成・特別な御成」に掲載                  リンク先 https://koukisin-sanpokoukogaku.com/blog/?p=2224

風が北西風に変わると、火事は湯島(文京区)、柳原(千代田区)に拡大、両国橋火之番九鬼家上屋敷も焼失した。炎はさらに本所(墨田区)、深川(江東区)まで広がり、翌日の午後に鎮火した。大名屋敷300余、町屋2万余と寺社多数を焼失、南北8km、東西12kmが焼野原と化した。

元禄6年(1693)の「浅草橋」「両国橋」「津藩藤堂家下屋敷」

  元禄六年(1693)「江戸正方鑑図」古地図史料出版

「両国橋広小路跡」右端が両国橋で江戸時代の両国橋は左端辺り

「元禄変異記」(著者・執筆年とも不明)
『東京市史稿 変災編第四』東京市役所 臨川書店 昭和50年(1975)
 字間 行間 段落の設定、現代語への要約、補筆[]、注(※)は筆者(私)による

水戸様火事本庄(※本所 墨田区)に逃れようとする人々が、浅草見附へかかりしに、柳原(※台東区)の火、浜町(※中央区)の火が押廻り、浅草見附焼き掛り、浅草橋焼け落ちたため、渡りかけていた者たちは焼け死に、700人余りが溺れ死んだ。

武家屋敷と町々を焼いた火は、両国橋から本庄飛び火した。そこへ[小伝馬町牢屋敷の]囚獄司(※獄舎の管理者)石出帯刀は、囚人たちを数珠つなぎにして両国橋へ逃れてきたが、避難の群衆にさえぎられてしまった。そこで帯刀は厳威をもって人々を留め、囚人を通り抜けさせた。

両国橋火之番九鬼大和守(※隆久 播磨三田藩主)は、大勢の家来に命じて橋の前後に関を構え堅くをして、両国橋を渡ろうとする者を押し留めた。そのため数万の老若男女は猛火に追われ、行く手を阻まれた。大風にあおられた煙が押し迫り、人々の泣き叫ぶ声はさながら地獄のありさまなり。

そこへ[本所大川端(現・墨田区両国)に下屋敷のある]藤堂和泉守(※三重県・津藩主藤堂高睦たかちか)と[本所十間川(現・江東区亀戸)に中屋敷のある]佐竹右京太夫(※秋田県・久保田藩主佐竹義格よしただ)のそれぞれの奥方女中数百人が供侍とともに両国橋を通り抜けようとした。

 すると、火之番九鬼家の家来が「一人も通さぬ」と押し留めた。仰天した両家の人々が「如何せん」と思案していると、騎馬の供侍が「火難を逃れようとしているのに道を塞ぎ、そうしているうちに火が移り、焼死する事態が目前に迫っている」「もともと死すべきこの命。主人を助け、大勢の婦人を助け、それで我が身一人が切腹することになっても、それはたいしたことではない」と言い放った。そして供侍たちが一斉に刀を抜い九鬼家の家来に討ちかかった

これにたじろいだ九鬼家の家来が引き下がったため、藤堂家佐竹家の奥方の乗る輿をはじめ、下男下女も両国橋を通り抜けた。

これを機に数万の人々があとに続いたが、ほどなく橋に火が燃え移った。驚いた人々は隅田川に飛び込んで溺死、やがての中程が焼け落ち、人々も落下して水底に沈んだ。その死者2600人余に及んだ。

幕府「評定所」が三田藩を詮議するもお咎めなし
三田藩九鬼家年譜』高田義久編 平成11年(1999)
  []と() 字間 行間 太字化は筆者(私)による

元禄16年(1703)8月(5代綱吉)
老中五連名御奉書を以て両国橋火之番諏訪安芸守[忠虎 信濃諏訪藩(長野県)]に代わり仰せ付かる

11月29日 江戸大火
此火事に付 両国橋過半焼落ち死者夥(おびただ)しく、評定所[老中と三奉行で構成する裁判機関]へ御家来下々間で召出され 兎角御詮議有り 何れも申し訳相立ち 滞り無く相済み。詰合家老九鬼図書隆展・江戸留守居江口久右衛門・高木夫右衛門・御目付野村四郎左衛門        
12月12日 御役所両国橋焼失に付、[家老]九鬼図書隆展遠慮仰せ付かる

宝永元年(1704)4月2日
両国橋火之番御免御代り小出伊勢守[英利(ふさとし) 丹波園部藩(京都府)藩主]仰せ付かる

宝永3年(1706)12月23日
本所火消仰せ付かる

「両国橋封鎖突破」の口火きった「藤堂家の家臣」とは?

上記の「元禄変異記」には、この藤堂家家臣の氏名は記載されていないが、江戸火消年代記(藤口透吾編著)「両国橋の乱闘」は「綴半太夫」と明記。「藤堂の家臣綴半太夫は腰の一刀を抜き放つと馬から飛びおり、九鬼の家来たちの中に斬り込んでいった。これに勢いを得たお供の侍たちも一刀を抜き放ち、縦横無尽に暴れまわった」とある。
三重県立図書館所蔵の津藩関係資料に「綴半太夫」の記述なし
私はこの事件を東京新聞「東京ふるさと歴史散歩」に執筆するにあたり、「綴半太夫」について津藩の地元である三重県立図書館に問い合わせ、次のような回答を頂いた。
三重県立図書館地域資料コーナー「レファレンス回答」2008年(平成20)8月5日        当館所蔵の津藩(藤堂家)に関する歴史資料、伝承資料を調査しましたが『三重県史』『永保記事略』『津藩史稿』などに、「元禄16年の江戸の大火で江戸藩邸が焼失した」旨、記載されていましたが、綴半太夫のエピソードや綴半太夫に関する記述はございませんでした。               その他、藤堂藩に関する人物辞典、分限帳などを調査しましたが、綴半太夫に関する記述はございませんでした。

臼杵藩江戸勤番日記に見る「大名火消の出動」

大名火消役を「御防ぎ役」火之番を「火の見」と記載
『勤番武士の心と暮らし 参勤交代での江戸詰中日記から』酒井博 酒井容子 文芸社

臼杵藩(5万65石余)天保13年(1842 12代将軍家慶)
【御防ぎ御役(火消役)の御布令】
臼杵藩稲葉家など八家に布令。奥州一ノ関藩田村家、肥後新田藩細川家、備中足守藩木下家、日向佐土原藩島津家、丹後園部藩小出家、信州高遠藩内藤家、江州水口藩加藤家。

【老中連署の出動指令】
幕府老中連署「火事について火消し仰せつけられ候早速まかりいで之を防がるべく候

【出動準備・火事装束】
火の見櫓の板木を打ち、拍子木(かね)を合図身支度玄関高張提灯ろうそくを立て、(まとい)や馬印を飾り立て、殿様身支度して出動。一番騎馬から三番騎馬まで先乗り家老殿  様の後乗りだ。
以上が騎馬での出動で、それ以外は徒士の御供になる。臼杵藩では鳶の者御供に雇った。火の見櫓の板木打つのも雇い者だという。




 

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