▲拙稿『土木施工』「なぞのスポット東京不思議発見」平成19年(2005)2月号 山海堂
いつも以上に防火意識の高まる冬というわけで、「防火のまじないに猪を飼った新吉原遊廓」の事例を紹介する。そこには、幕府の火消や町火消が出動しない「治外法権の地・新吉原遊廓」の特殊性が感じられる。
また、幕府の学問所である湯島聖堂の屋根には、防火まじないとして、鯱ならぬ中国の想像上の動物で魔除けの力があるとされる「鬼犾頭」が設置され、その姿を今に伝えている。そして池上本門寺では江戸時代に山門額の「長榮山」の火の字を土に変えて、火除けの意味を持たせたという。
私は「猪で防火まじないの新吉原遊廓」や「防火策で上水廃止」の話を『土木施工』「なぞのスポット東京不思議発見」に、「湯島聖堂の鬼犾頭」を東京新聞「東京ふるさと歴史散歩」に掲載しているので、それらの記事をもとに説明する。
また当ブログの予告編的【YouTubeショート動画松本こーせい】に「江戸の火除けまじない」をアップしたのでリンクする。※動画中の新吉原遊郭の「郭」は「廓」の間違いです。訂正してお詫び申し上げます。
【関連記事】「幕府や大名の火消」については、当ブログ「番方火消 奉書火消 火之番・方角・各自火消」をどうぞ。
https://koukisin-sanpokoukogaku.com/blog/?p=2363
【参考文献】
『浄閑寺と永井荷風先生』浄閑寺 平成11年(1999)
東京歴史散歩第十集『補遺隅田川とその両岸(上巻)』豊島寛彰 芸州書院 昭和46年(1971)
『断腸亭日乗四』永井荷風 岩波書店 昭和55年(1980)
「あらかわ文化財だより第23号」荒川区 平成7年(1996)
『名古屋城史』名古屋市役所 昭和34年(1959)
『ぶんきょうの史跡めぐり』東京都文京区教育委員会 平成10年(1998)
湯島聖堂(公益財団法人斯文会)「湯島聖堂の生涯学習」「湯島聖堂略年表」
『江戸消防創立五十周年記念』高柳保雄 (社)江戸消防記念会 平成16年(2004)
鳶魚江戸文庫21『江戸の旧跡 江戸の災害』三田村鳶魚 朝倉治彦編 中公文庫 1998年(平成10)
新吉原遊廓が「火除けのまじないに猪を飼育」した理由とは?
「なぞのスポット東京不思議発見」『土木施工』平成19年(2005)2月号 山海堂
▼『江戸名所図会』「新吉原町」 丸囲みの「大門」の側で猪を飼っていたとされる
亥碑を祀る浄閑寺の『浄閑寺と永井荷風先生』よると、この碑は天保年間(※1830年~1843年 11代将軍家斉・12代家慶)に災厄除けのために白い豕(猪)を新吉原遊廓の大門の側で飼育した(※)のを葬ったものだという。
※ 永井荷風『断腸亭日乗四』には「大門口に豕を飼いたることは古人の隨筆等にも會て見ざるところ、爲永春 水の著述にも見えざるなり」とある
そして「豕塚に彫られた猪の絵は火伏せの豕と伝承されてきたので、浄閑寺が安政の大地震(※1)、関東大震災(※2)、東京空襲で火災を免れたのは、この豕のお蔭だと信ずる人もいた」という。
※1 安政の大地震 安政2年(1855)10月2日 マグニチュード6・9 震度6と推定
※2 関東大震災 大正12年(1923)9月1日 マグニチュード6・9 中央気象台の地震計破壊
永井荷風は昭和12年(1937)に浄閑寺で「火伏せの豕」と伝わる豕塚の碑文を書き写している。これについて『浄閑寺と永井荷風先生』は、「豕塚の碑面上部が戦時中欠損したが、碑文を荷風先生が日記に書き留めて置かれたお蔭で、今日全文を知り得ることはありがたい」としている。
永井荷風が書き記した「亥塚の碑文」
永井荷風の日記『断腸亭日乗四』によると、豕碑の文面は次のようなものだった。
※旧字体は新字体に一部あらためた
東都花柳街曰吉原。自古多罹災。天保八年亦災。闔郷為之憂。而俗傳豕能厭勝焉。因飼之于大門至
十年冬暴死。乃葬之於箕輪浄閑寺。建石以表。為祈其冥福。●(※「北」の下に「異」)霊魂長護災
天保十一歳次庚子夏四月。應需南海竹搗驥敷。
『断腸亭日乗四』にはこの碑文の現代語訳がないので、猪の母と子の会話形式で碑文を簡略平易に記した「あらかわ文化財だより第23号」の記事を一部抜粋引用する。
『あらかわ文化財だより第23号』「うりぼう浄閑寺にもどる」
江戸の花街新吉原は、昔から火災が多いところで、天保8年(一八三七)の火災でもことごとく燃えて
しまった。俗にわたしたちイノシシは、災いを撇といわれるので、吉原大門の側で飼ったところ、天保10年の冬突然死んでしまった。亡骸をここ浄閑寺に葬り、イノシシの魂が災いから守ってくれるように祈願して、天保11年4月、石碑を建てた。
▼浄閑寺の豕碑
写真の白い部分がイノシシ像
十二支の豕は「水に配す」ので「火除けのまじない」に
十二支の「豕」は北西「水に配す」というので、「火除け」のまじないにされたという。そのため、「豕の日にこたつを出すと火事にならない」という俗信もうまれた。
豊島寛彰『補遺隅田川とその両岸(上巻)』は、豕を火災除けとするのは浄閑寺の碑だけではないとして、猪が火よけのまじないにされた理由を次のように記している。
「京都の愛宕神社の祭神が雷神を祀り、防火の守護神としていて、そのお使いが猪であるわけで、そこから来ていることを考えると火防せの碑のいわれがわかる」
湯島聖堂の火除けの守りは「想像上の水の神・鬼犾頭」
▲拙稿 東京新聞連載「東京ふるさと歴史散歩 愛知県の巻・湯島聖堂の博覽會」2008年(平成20)6月7日
天守飾りの「鯱」と「鬼犾頭」とは?
「鯱」は想像上の海魚で火に水を吹くので「防火の呪禁」に
『名古屋城史』は御城などの高層建築物天主飾りの「鯱」について、飛鳥、奈良時代には大棟屋上に鴟尾を上げており、鯱はその転化したものと想像されるとする。鯱の形のものは室町時代の建築物に見られ、インドのマカラ(摩迦羅、 摩伽羅)というから出ているとされ、鰐魚とも龍ともつかぬ理想動物だという。
そして、鯱は強そうな外見なので敵を威嚇するのに役立ち、「海に棲んで、火に遭えば水をふくむ」とされるので、「防火の呪禁としても、天守にはうってつけの飾物となる」としている。
▼名古屋城天守の金鯱
▼『金草鞋』「神田明神」に描かれた江戸城常盤橋御門の鯱
「鬼犾頭」は「魔除けの力」をもつとされる中国の想像上の動物
元禄4年(1691)5代将軍徳川綱吉は、文京区湯島に幕府の学問所「湯島聖堂」(のちの昌平坂学問所)を開設。孔子を祭る「大成殿」の屋根の上には、中国の想像上の動物で魔除けの力があるとされる「鬼犾頭」が設置された(『ぶんきょうの史跡めぐり』「湯島聖堂」)。
この鬼犾頭について、湯島聖堂(公益財団法人斯文会)の「湯島聖堂の生涯学習」は「鬼犾頭は水の神として火を避け、火災を防ぎ建物を守るために祀られている想像上の神魚」としている。
湯島聖堂と大火
湯島聖堂の「湯島聖堂略年表」によると、湯島聖堂は元禄16年(1703)から弘化3年(1846 12代将軍家慶)までの143年間に、8回大火に見舞われている。弘化3年の大火では、昌平坂学問所・学舎が全焼したが、大成殿は火災を免れたという。そして昭和10年(1935)には、大成殿に新たに青銅製の鬼犾頭が設置された。
▼『江戸名所図会』「聖堂」に描かれた鬼犾頭 「大聖殿」は正しくは「大成殿」
▼現在の湯島聖堂大成殿の鬼犾頭 昭和10年(1935)に設置の青銅製
本門寺は山号額「長榮山」の「火」の字を「土」に替えて火除け祈願
新吉原遊郭は「猪」に、湯島聖堂は想像上の動物「鬼犾頭」に防火の願いを込めたが、『江戸消防 創立五十周年記念』によると、日蓮宗池上本門寺(大田区)では山号額の「長榮山」の「火」を「土」に変えて、火除けを祈願したという。
▼池上本門寺山門
▼山号額
江戸時代初期の多才な芸術家である本阿弥光悦は、本門寺の山号額の長榮山の「榮」の字の「火」を「土」に変えた。火除けの意味もあることから、これに着目した火消したちは、江戸町内の題目講(日蓮宗信者の講)と合流して、縄をかざして参詣する万灯供養の行列を行った。
明治29年(1896)に本成院住職が書いた『池上長榮山本門寺誌全』には、「長榮の榮字の火を土の如き字に改めしは火難を忌みし意ありとて今は之を用ゆ」とある。