いつも以上に防火意識の高まる冬というわけで、「防火のまじないに猪を飼った新吉原遊廓」の事例を紹介する。そこには、幕府の火消や町火消が出動しない「治外法権の地・新吉原遊廓」の特殊性が感じられる。
また、幕府の学問所である湯島聖堂の屋根には、防火まじないとして、鯱ならぬ中国の想像上の動物で魔除けの力があるとされる「鬼犾頭」が設置され、その姿を今に伝えている。そして池上本門寺では江戸時代に山門額の「長榮山」の火の字を土に変えて、火除けの意味を持たせたという。
私は「猪で防火まじないの新吉原遊廓」や「防火策で上水廃止」の話を『土木施工』「なぞのスポット東京不思議発見」に、「湯島聖堂の鬼犾頭」を東京新聞「東京ふるさと歴史散歩」に掲載しているので、それらの記事をもとに説明する。
また当ブログの予告編的【YouTubeショート動画松本こーせい】に「江戸の火除けまじない」をアップしたのでリンクする。※動画中の新吉原遊郭の「郭」は「廓」の間違いです。訂正してお詫び申し上げます。
【関連記事】「幕府や大名の火消」については、当ブログ「番方火消 奉書火消 火之番・方角・各自火消」をどうぞ。
https://koukisin-sanpokoukogaku.com/blog/?p=2363
【参考文献】
『浄閑寺と永井荷風先生』浄閑寺 平成11年(1999)
東京歴史散歩第十集『補遺隅田川とその両岸(上巻)』豊島寛彰 芸州書院 昭和46年(1971)
『断腸亭日乗四』永井荷風 岩波書店 昭和55年(1980)
「あらかわ文化財だより第23号」荒川区 平成7年(1996)
『名古屋城史』名古屋市役所 昭和34年(1959)
『ぶんきょうの史跡めぐり』東京都文京区教育委員会 平成10年(1998)
湯島聖堂(公益財団法人斯文会)「湯島聖堂の生涯学習」「湯島聖堂略年表」
『江戸消防創立五十周年記念』高柳保雄 (社)江戸消防記念会 平成16年(2004)
鳶魚江戸文庫21『江戸の旧跡 江戸の災害』三田村鳶魚 朝倉治彦編 中公文庫 1998年(平成10)
新吉原遊廓が「火除けのまじないに猪を飼育」した理由とは?
「なぞのスポット東京不思議発見」『土木施工』平成19年(2005)2月号 山海堂
猪で防火?町火消が出動しない「新吉原」では「火除けのまじない」に
「大門の傍で猪を飼育」し「猪の慰霊と火除祈念の石碑」を「浄閑寺に建立」
(荒川区南千住浄閑寺)
日比谷線三ノ輪駅のすぐ近くに「浄閑寺」というお寺がある。門前の通りは江戸時代に開かれた「新吉原遊廓」に通じる日本堤の跡で、新吉原の周りには西方寺、大音寺という投げ込み寺があったが、浄閑寺もそのひとつであった。
▼浄閑寺 撮影松本こーせい

▼浄閑寺の「新吉原総霊塔」 撮影松本こーせい
寛政5年(1793)建立の供養塔を昭和4年(1929)に改修 その正面には永井荷風碑がある

吉原遊廓は人形町辺り(中央区)に開かれたのを「旧吉原」といい、明暦3年(1657 4代家綱)明暦の大火を契機に、浅草寺裏の千束村の田圃に移転し開業したほうを「新吉原」というが、吉原遊廓は新旧合わせて250年間の間に27回も大火に見舞われている。
江戸時代初期の消防組織は未整備で、江戸城火災の場合は老中・若年寄が旗本を指揮して消火に当たったが、武家屋敷・町屋敷での火災は、武家・町がそれぞれ独自に消火活動を行った。
寛永20年(1643 3代家光)、6万石以上の大名で「大名火消」が編成され、武家地の消防と江戸城および江戸市中の幕府関係施設の防護に当たった。万治元年(1658 4代家綱)には、旗本に火消屋敷を与え、与力・同心・火消人足を配した幕府直轄の「定火消」が設置された。
明暦の大火で町方消防「町火消」誕生
町方の消防組織は、明暦3年(1657 4代家綱)の明暦の大火後に設置されたが、町人の負担が重かったため発展しなかったが、8代将軍吉宗の「享保の改革」の一環として、享保3年(1718)、町奉行大岡忠相の指導によって「町火消」の整備が進められた。
当初は武家地での消火活動が認められていなかったが、享保7年(1722)にはそれが認められ、のちには江戸城内へも出動するようになった。
「治外法権地新吉原遊廓」は自衛消防の「廓火消」設置
傾城町である新吉原遊廓は治外法権地として扱われ、火災の際には公儀の火消や町方の火消は出動しない習わしになっていた。そのため新吉原では独自に「廓火消」を組織していた。
但し、天保6年(1835 11代家斉)角町の遊女屋から出火、廓内が全焼した火災では、例外的に町火消が出動した。廓外への延焼が懸念されたためだろうと思われる。
新吉原全焼で浅草か本所深川に「仮宅営業」
新吉原が全焼すると復興するまでの間、浅草近辺(台東区)か本所(墨田区)、深川(江東区)での仮宅営業が許可された。この仮宅での営業は、廓内と異なり形式手順を簡素化したため安上がりで遊べたので、かえって繁昌した。仮宅営業が許可されるためには、新吉原の全焼が条件とされたので、焼け残りがありそうな場合は廓火消がこれを焼き払ったという。
それでも、度重なる火災は新吉原の営業に打撃を与えた。多くの妓楼が廃業に追い込まれ、遊女たちに死傷者を出した。
陰陽五行説「亥は火除けまじない」にちなみ「新吉原で猪飼育」
天保8年(1837 12代家慶)10月19日、江戸町三丁目より出火し廓を焼き尽くす火事がおきると、新吉原では火除けのまじないとして大門の側で亥(猪)を飼った。陰陽五行説によると、十二支の「豕」は北西に位置し水に配すことから、火除けのまじないとされたようだ。新吉原に限らず、町家でも豕の日を選んで炬燵を開ける習慣があったが、これもこのまじないに起因するという。
▼『江戸名所図会』「新吉原町」 丸囲みの「大門」の側で猪を飼っていたとされる

天保11年建立「浄閑寺の豕碑」の碑文
新吉原遊廓で飼われていた猪のことを記した祈念碑が、荒川区南千住の「浄閑寺」に今も現存している。戦時中に上部が欠損、碑文の一部が判読できないが、浄閑寺とゆかりのある作家の永井荷風が次のように書き留めている。 (※)は私(筆者)による補足
「江戸の花街新吉原は昔から火災が多く、天保八年(※1837 12代家慶)の大火で焼失した。俗に猪は災いを救うというので、吉原大門の側で猪を飼ったが、天保十年(※1839)の冬に死亡、浄閑寺に葬った。猪の冥福を祈りその魂が災いから守ってくれるよう祈願して、翌11年(※1840)に建立した」


浄閑寺によると、纏持ちの火消が豕碑を削り取り、その破片をお守りとして身につけたのだという。現在も参拝者によって削られ、碑の保存状態が危ぶまれているという。
江戸時代の「猪防火信仰」 吉宗の猪放牧 呉服屋の店頭猪飼育
ちなみに、享保(1716~)の初めには8代将軍徳川吉宗が柳原土手に猪を放牧している。瓦葺きや塗屋土蔵造りの防火建築を推進し、町火消の整備を行って消防行政に力を入れた吉宗だけに、この猪放牧も火除けのまじないと思われる。また嘉永年間(1848~54 12代家慶)には尾張町、麹町の呉服屋などが店頭で猪を飼育している。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆室鳩巣「防火対策で上水廃止」◆◆◆◆◆◆◆◆◆
8代将軍徳川吉宗の侍講である室鳩巣は、の吉宗の火災防止策諮問に対し、次のような「上水廃止」を建言している。
「風は大地の息によって発生するものだが、江戸では縦横無尽に地下を走る水道が地脈を遮断したため、風の秩序が狂った結果、風が起き火事も起きるようになった。土が水気を含んで潤っているのは、地中を水が流れているからで、水道があると土の湿気は水道に抜けて枯乾してしまうため、地中から生ずる風も乾燥して火災を招来するようになる。したがって、上水道を廃止すれば火事は減る」という理論だ。こうして、神田・玉川上水を除く、亀有・青山・三田・千川上水は、享保7年(1722 8代吉宗)に廃止された。
この室鳩巣案には別の解釈もある。火事の多発は不景気で全国から困窮者が江戸に流入したため「風儀が乱れての放火」が原因とし、水道の維持・管理が困難な地区では堀り井戸を奨励し水道廃止を説いたというのだ。
永井荷風『断腸亭日乗』に記された「浄閑寺豕碑の碑文」
亥碑を祀る浄閑寺の『浄閑寺と永井荷風先生』よると、この碑は天保年間(※1830年~1843年 11代将軍家斉・12代家慶)に災厄除けのために白い豕(猪)を新吉原遊廓の大門の側で飼育した(※)のを葬ったものだという。
※ 永井荷風『断腸亭日乗四』には「大門口に豕を飼いたることは古人の隨筆等にも會て見ざるところ、爲永春水の 著述にも見えざるなり」とある
そして「豕塚に彫られた猪の絵は火伏せの豕と伝承されてきたので、浄閑寺が安政の大地震(※1)、関東大震災(※2)、東京空襲で火災を免れたのは、この豕のお蔭だと信ずる人もいた」という。
※1 安政の大地震 安政2年(1855)10月2日 マグニチュード6・9 震度6と推定
※2 関東大震災 大正12年(1923)9月1日 マグニチュード6・9 中央気象台の地震計破壊
永井荷風は昭和12年(1937)に浄閑寺で「火伏せの豕」と伝わる豕塚の碑文を書き写している。これについて『浄閑寺と永井荷風先生』は、「豕塚の碑面上部が戦時中欠損したが、碑文を荷風先生が日記に書き留めて置かれたお蔭で、今日全文を知り得ることはありがたい」としている。
永井荷風が書き記した「亥塚の碑文」
永井荷風の日記『断腸亭日乗四』によると、豕碑の文面は次のようなものだった。
※旧字体は新字体に一部あらためた
東都花柳街曰吉原。自古多罹災。天保八年亦災。闔郷為之憂。而俗傳豕能厭勝焉。因飼之于大門至
十年冬暴死。乃葬之於箕輪浄閑寺。建石以表。為祈其冥福。●(※「北」の下に「異」)霊魂長護災
天保十一歳次庚子夏四月。應需南海竹搗驥敷。
『断腸亭日乗四』にはこの碑文の現代語訳がないので、猪の母と子の会話形式で碑文を簡略平易に記した「あらかわ文化財だより第23号」の記事を一部抜粋引用する。
『あらかわ文化財だより第23号』「うりぼう浄閑寺にもどる」
江戸の花街新吉原は昔から火災が多いところで、天保8年(1837)の火災でもことごとく燃えてしまった。俗にわたしたちイノシシは、災いを撇といわれるので、吉原大門の側で飼ったところ、天保10年の冬突然死んでしまった。亡骸をここ浄閑寺に葬り、イノシシの魂が災いから守ってくれるように祈願して、天保11年4月、石碑を建てた。
十二支の豕は「水に配す」ので「火除けのまじない」に
十二支の「豕」は北西「水に配す」というので、「火除け」のまじないにされたという。そのため、「豕の日にこたつを出すと火事にならない」という俗信もうまれた。
豊島寛彰『補遺隅田川とその両岸(上巻)』は、豕を火災除けとするのは浄閑寺の碑だけではないとして、猪が火よけのまじないにされた理由を次のように記している。
「京都の愛宕神社の祭神が雷神を祀り、防火の守護神としていて、そのお使いが猪であるわけで、そこから来ていることを考えると火防せの碑のいわれがわかる」
湯島聖堂の火除けの守りは「想像上の水の神・鬼犾頭」

▲松本こーせい 東京新聞連載「東京ふるさと歴史散歩 愛知県の巻・湯島聖堂の博覽會」 2008年(平成20)6月7日
天守飾りの「鯱」と「鬼犾頭」とは?
「鯱」は想像上の海魚で火に水を吹くので「防火の呪禁」に
『名古屋城史』は御城などの高層建築物天主飾りの「鯱」について、飛鳥、奈良時代には大棟屋上に鴟尾を上げており、鯱はその転化したものと想像されるとする。鯱の形のものは室町時代の建築物に見られ、インドのマカラ(摩迦羅、 摩伽羅)というから出ているとされ、鰐魚とも龍ともつかぬ理想動物だという。
そして、鯱は強そうな外見なので敵を威嚇するのに役立ち、「海に棲んで、火に遭えば水をふくむ」とされるので、「防火の呪禁としても、天守にはうってつけの飾物となる」としている。
▼名古屋城天守の金鯱

▼『金草鞋』「神田明神」に描かれた江戸城常盤橋御門の鯱

「鬼犾頭」は「魔除けの力」をもつとされる中国の想像上の動物
元禄4年(1691)5代将軍徳川綱吉は、文京区湯島に幕府の学問所「湯島聖堂」(のちの昌平坂学問所)を開設。孔子を祭る「大成殿」の屋根の上には、中国の想像上の動物で魔除けの力があるとされる「鬼犾頭」が設置された(『ぶんきょうの史跡めぐり』「湯島聖堂」)。
この鬼犾頭について、湯島聖堂(公益財団法人斯文会)の「湯島聖堂の生涯学習」は「鬼犾頭は水の神として火を避け、火災を防ぎ建物を守るために祀られている想像上の神魚」としている。
湯島聖堂と大火
湯島聖堂の「湯島聖堂略年表」によると、湯島聖堂は元禄16年(1703)から弘化3年(1846 12代将軍家慶)までの143年間に、8回大火に見舞われている。弘化3年の大火では、昌平坂学問所・学舎が全焼したが、大成殿は火災を免れたという。そして昭和10年(1935)には、大成殿に新たに青銅製の鬼犾頭が設置された。
▼『江戸名所図会』「聖堂」に描かれた鬼犾頭 「大聖殿」は正しくは「大成殿」

▼現在の湯島聖堂大成殿の鬼犾頭 昭和10年(1935)に設置の青銅製


本門寺は山号額「長榮山」の「火」の字を「土」に替えて火除け祈願
新吉原遊郭は「猪」に、湯島聖堂は想像上の動物「鬼犾頭」に防火の願いを込めたが、『江戸消防 創立五十周年記念』によると、日蓮宗池上本門寺(大田区)では山号額の「長榮山」の「火」を「土」に変えて、火除けを祈願したという。
▼池上本門寺山門

▼山号額

江戸時代初期の多才な芸術家である本阿弥光悦は、本門寺の山号額の長榮山の「榮」の字の「火」を「土」に変えた。火除けの意味もあることから、これに着目した火消したちは、江戸町内の題目講(日蓮宗信者の講)と合流して、縄をかざして参詣する万灯供養の行列を行った。
明治29年(1896)に本成院住職が書いた『池上長榮山本門寺誌全』には、「長榮の榮字の火を土の如き字に改めしは火難を忌みし意ありとて今は之を用ゆ」とある。