梅雨前線、台風そして近年の「線状降水帯」の発生で、風水害の危険が増大した気象状況・・・。そこで今回は平穏な気候を願い、神にも祈る想いで、日本で唯一とされる「気象神社」について紹介する。
東京都杉並区高円寺の氷川神社に境内末社として祀られている気象神社は、同区にあった「陸軍気象部の気象神社」を戦後に遷したものである。その経緯とは?
その祭神「八意思兼命」は、建築関係の神様とされ、「お天気の神様」として祀られているのは、この気象神社だけであるという。その理由とは?
私はこの話を氷川神社宮司山本雅道さんに取材して、『土木施工』(山海堂)連載「なぞのスポット東京不思議発見」に掲載したので、これを加筆した単行本の記事と執筆資料で説明しよう。
この取材が縁となり、山本宮司さんから氷川神社社報「ひかわ」に掲載する対談「地域社会と歴史探訪~散歩考古学~」を依頼されたので、その対談も掲載する。
また、この話の簡単なあらすじをYouTubeショート動画松本こーせい「日本唯一の気象神社#shorts」にアップしたのでリンクする。
【参考文献】
「氷川神社要覧」
氷川神社社報「ひかわ102号」氷川神社社務所 山本雅道 平成13年(2001)6月
杉並郷土史叢書『杉並風土記中巻』森泰樹 杉並郷土史会 1987年(昭和62)
『新修杉並区史資料編』杉並区役所 1982年(昭和57)
『日本神祇由来事典』川口謙二編著 柏書房 1993年(平成5)
『古事記(上)全約注』次田真幸 講談社学術文庫 1977年(平成9)
陸軍気象部に造営されていた日本唯一の「気象神社」とは?
松本こーせい『なぞのスポット東京不思議発見』(山海堂)平成17年(2003)
▼GHQの「神道指令」の調査もれで「気象神社」撤去されず
▼日清戦争を機に陸軍が「中野・高円寺に軍事施設」
▼陸軍通信学校・陸軍中野学校・陸軍気象部の開設
▼氷川神社別当の高円寺と氷川神社に遷座の気象神社
▼「天孫降臨神話」の随伴神の一人「八意思兼命」とは
▼日米開戦突入機に「気象報道管制命令」
戦災焼失社殿の代用に氷川神社が戦後に「気象神社」払い受け
「氷川神社要覧」をもとに山本雅道宮司に話を伺ったので紹介する。
【氷川神社要覧】
神域神殿 (※筆者注) 太字化も筆者
昭和20年(※1945)5月25日戦災(東京大空襲)により焼失
昭和22年9月18日新築仮殿(御造営さる)
尚、末社は昭和20年終戦後山本実宮司(※雅道宮司の父親)が(※杉並区馬橋4丁目)旧陸軍気象部より払下げ御遷座した気象神社である。
稲荷神社は37年(※1962)8月28日大河原幸作氏の御尽力により高円寺北1丁目より遷された。
昭和46年(※1971)10月14日社殿、社務所、神楽殿、神輿庫造営さる。
【山本雅道宮司による補足説明】2003年(平成15)4月
戦災で氷川神社の社殿が焼失。陸軍気象部の気象神社も焼失したが、気象神社は再建された。そこで戦後、この気象神社の払い下げを申請して氷川神社に御遷座した。現在の気象神社は老朽化が進んだため2003年3月に撤去、新たに製作して6月に竣工式の予定だ。
氷川神社の「気象神社由緒」 (※筆者注) 太字化も筆者
気象神社は昭和13年(※1938)陸軍気象部勤務の統括、教育機関として旧馬橋(現高円寺北4丁目)に創設された陸軍気象部の構内に、昭和19年(※1944)4月10日造営、奉祀されたが、翌20年4月13日に空襲に因り焼失し、社殿は終戦直前に急遽再建されたものである。
太平洋戦争の終戦に当たり神道指令(※政府による神社・神道への支援・監督の禁止)に依り除却される筈の処当局の調査洩れのため残存しており、連合軍宗教調査局に申請して払下げを受け、氷川神社境内に移設し、23年(※1948)9月18日氷川神社大祭に際し、遷座祭を執行、奉祀して現在に至ったもので爾来毎年6月1日の気象記念日に例祭が斉行されている。
(第三気象聯隊戦友会、気象関係戦友会有志による)
現存するか?!「気象神社のあった陸軍用地の境界石」
『杉並風土記中巻』(森泰樹 杉並郷土史会)には、「村主耕一氏調べによる陸軍用地境界石所在地」を記した地図が掲載されている。
このような「○○跡の名残・痕跡」というのは、土地の履歴を辿る「散歩考古学」にとって好奇心を刺激する格好の題材なので、杉並区役所に問い合わせたところ、次のような回答を頂いた。
気象神社祭神「思兼神」は天岩屋戸・天孫降臨神話の「思慮と知恵の神」
『日本神祇由来事典』(川口謙二編著)によると、思兼神・思兼命は『古事記』『日本書紀』神話の男神で、高御産巣日神・高木神の御子。「思兼」とは多くの人々の知恵と思慮を兼ね備えるほど、「知謀にたけた神」という意味だという。
天照大神が天岩屋戸に身を隠し、世の中が暗闇になった際に、天照大神が天岩屋戸から出てくる方策を考えた神であり、国譲り(国土平定)の建議者でもある。
思兼神は「思金神」「八意思兼神」(『旧事本紀』)とも書く。八意とは立場をかえて思い考えることで、思兼とは種々の思慮の分別をするという意味だという。
常世思金命ともいい、思慮に富み、数人の思い図ることを一人で兼ね給うことから八意思兼神ともいう。
『古事記(上)全訳注』<現代語訳>(次田真幸)によると、「思兼神は多くの思慮を兼ね備えた智力の神」だ。
そして「天孫降臨」[※筆者(私)注 皇祖天照大神の命を受けた孫の瓊瓊杵尊が高天原から日向国の高千穂に天降ったという神話]の際には、アメノコヤネノ命(天児屋命)・フトダマノ命(布刀玉命)・アメノウズメノ命(天宇命売命)・イシコリドメノ命(伊斯許理度売命)・タマノオヤノ命(玉祖命)の五つの部族長、それに加えて、オモヒカネノ神(思金神)・タジカラヲノ神(手力男神)・アメノイハトワケノ神(天石門別神)も加え、天照大神は「オモヒカネノ神は、私の祭に関することをとり扱って政事を行いなさい」と仰せになった。
「思兼神」が「大工の手斧初めの儀式の主神」になった理由とは?
『日本神祇由来事典』(川口謙二編著)によると、「思兼神」は建前[※筆者(私)注 棟上げ]と関係のある手斧初の儀式の主神」でもある。
手斧初は大工が建前の初の日に、正面を南向きにして頭柱を立て、柱の正面に天思兼神、右側に手置帆之神、左側に彦狭命と記し、裏面に年月日・建主名を墨書するというもの。
[※筆者(私)注 手置帆負神と彦狭命は天照大神が天岩戸に隠れた際、木材を集め、瑞殿(御殿・社殿)を造営。工匠の神様とされる。]
思兼のカネはカネジャク(曲尺・矩尺)のカネに通じ、曲尺は大工金とも呼ばれ、大工道具の中で一番大切なものでであることから、思兼神が手斧初の主神となったのであろう。
[思兼神祀る神社](※筆者(私)注)
埼玉県秩父市番場町 秩父神社
茨城県那珂郡爪連町静(※茨城県那珂市静) 静神社
長野県下伊奈郡(※阿智村) 阿智神社
氷川神社山本宮司との神社報対談「地域社会と歴史探訪~散歩考古学」
「散歩考古学」は当然だと思っていた「歴史観を見直す探求方法」(山本雅道宮司)
氷川神社社報「ひかわ」第131号 平成21年(2009)1月吉日