「御成」とは皇族・摂家・将軍などの外出や来着のことである。元禄元年(1688)5代将軍綱吉が側用人牧野成貞邸を訪問。これが「将軍が臣下(君主に仕える者)の屋敷を訪れたのは初めて」(『週刊再現日本史33号』)、「将軍が臣下を訪問する先例」(『日本の歴史16』中央公論社)とされる。
『週刊再現日本史33号』講談社 平成13年(2001)12月25日号
『日本の歴史16』中央公論社 昭和41年(1966)
綱吉は牧野家に造営された「御成御殿」で、牧野から名刀・名品・名馬などの献上を受け、牧野に脇差・白銀・馬などを下賜。綱吉は能も演じている。
以後、綱吉は頻繁に御成を行い、牧野家に32回、側用人柳沢吉保家に58回、御三家や老中さらには外様大名の屋敷にまで御成を重ねた。そのため、御成の際の下賜品が幕府の財政に影響を与えたという。綱吉は諸大名の参勤や暇乞の際の下賜品も増大させ、幕府財政の負担増加を招いている。
御成は大名家にとっても、御成御殿の新築や御成の際の献上品や饗応で多額の負担を強いられた。
そこで今回は次の3話をもとに「将軍の御成」について説明する。
1 百万石前田家「綱吉御成御殿の建造費未払」で業者倒産 2 家斉の水野家・水戸徳川家「御通り抜け御成」
3 将軍家若君の「井伊家だけへの特別な御成」
また、この話の簡単なあらすじをYouTubeショート松本こーせい「御成御殿・御通り抜け御成・特別な御成#shorts」と題してアップしたのでリンクする。
YouTubeショート松本こーせい「御成御殿・御通り抜け御成・特別な御成」#shorts
百万石前田家「綱吉御成御殿の建造費未払」で業者倒産
元禄15(1702)年4月26日 御成
加賀藩前田家上屋敷(現・文京区本郷7東京大学)へ5代将軍綱吉が御成。御成御殿の造営費用19万8千両、柳沢吉保・老中・若年寄・諸大名ら随行者多数に饗応し夕料理5580人前、後日には御成の成功祝いで老中以下を招いてさらに饗応を重ねた。
前田家は御成費用として36万両を借金、その返済に10数年を要した。藩主綱紀はこの返済のため、幕府の承認を得て倹約を励行、幕吏や諸家への進献、贈答を一切止め、10数年かかってようやく完済している。
そのような状況下、御成御殿の造営費用は未払いとなっており、人足らが門訴(※)に及んでいる。この騒動は幕府の知るところとなり、老中が前田家の江戸留守居役(幕府や他藩との折衝役)を呼んで事の真偽を確かめると、「旗本救済の準備金を確保するため、普請賃金を未払いにしている」と回答。この不払いにより、御殿造営を請け負った三文字屋常貞が倒産に追い込まれている。
※門訴 大勢で領主や代官などの門前に押しかけて、要求を訴えること。
当ブログ「鳥取藩御用商人が江戸で支払い求めた門訴・駕籠訴とは」参照
https://koukisin-sanpokoukogaku.com/blog/?p=1607
そんな「御成御殿」だが、翌元禄16(1703)年11月、水戸藩上屋敷(現・文京区後楽)からの火事で類焼している。
「御成御殿請負」135万両未払いで「倒産」した有名な大金持ち
宝暦ころ(1760年ころ)成立の随筆で作者不詳(世界大百科事典』平凡社)の『江戸真砂六十帖』は、前田家の「綱吉御成御殿」建造費未払いで倒産した「本所三文字屋」について、その資産家ぶりと倒産の経緯を次のように記している。
『江戸真砂六十帖』
(※)は筆者(私)
本所三文字屋名を失う事
本所三文字屋は御入国以来の分限者(※金持ち)磯田三文字屋というて隠れなし。三文字屋が家は日本橋本町大伝馬町 中橋筋京橋 小網町(※いずれも現在の中央区日本橋)に73箇所いずれも大屋敷なり。目印に壁はいずれも鼠(※鼠壁)なり、
この三文字屋 本郷加賀様(※本郷の加賀藩前田家上屋敷)へ常憲院様(5代将軍綱吉)御成遊ばさるべきよし、御殿建前三文字屋諸式請負ける。
加賀屋敷より金子払い一切なく、135万両を損して、家屋敷残らず売り払い、今は本所の末(※墨田区)に名跡あり。
右御殿御成なくして 地震火事に残らず焼失す。江戸中この時 倒るる者多し。
▼加賀藩前田家上屋敷跡の東京大学
「御成予告」から「御成成功祝い饗応」までの際限なき費用
幕府から前田家への「御成予告」、「御成御殿造営」「御成当日の饗応」「御成翌月から3か月に及ぶ御成成功祝い」を時系列で紹介する。
元禄14(1701)年12月 幕府より「御成の予告」
元禄15(1702)年1月 「御成御殿造営開始」
前田家記録「このたびの御費用際限なし」
元禄15(1702)年1月29日 「棟上げ」
赤飯100俵 餅大樽580本
元禄15(1702)年4月11日 「落成」
48棟 建坪3000坪 大工20万人
元禄15(1702)年4月26日10時~17時 「御成」
側用人柳沢吉保・老中・若年寄・諸大名ら随行者多数に「饗応」
綱吉の講書 前田綱紀の進講 綱吉・綱紀の仕舞
夕料理5580人前(朝食・前日・前々日料理9180人前)邸内賄高3万人
元禄15(1702)年5月22日~8月19日
御成成功を祝い老中以下を招待し「饗応」
御殿工事費用 19万8000両
国元・江戸・京都からの借銀36万両→返済に10数年を要した
元禄16(1703)年11月 小石川水戸屋敷からの火事で御成御殿類焼
家斉の水野家・水戸徳川家「御通り抜け御成」
加賀藩前田家が「このたびの御費用際限なし」と記した、5将軍綱吉の御成とは対称的な簡略御成「御通り抜け御成」を紹介する。11代将軍家斉の「沼津藩水野家下屋敷」と「水戸藩下屋敷」への御成だ。
将軍御成用船着き場の「御召場」
将軍が大川(隅田川)筋へ「御成」(外出)する際には、両国橋の両脇にある「上之御召場」と「下之御召場」、ふたつの「御召し場(御台場)」から乗下船した。
江戸城から御召場までの経路
天明5年(1758)7月の10代将軍家慶の大川筋御成の場合、次のような経路で両国橋の御召場に向かっている。
五つ半時(午前9時頃)、老中を含む供揃え(将軍や大名の行列でお供を揃えること)をした家慶の行列は、大手門から常盤橋門、本町通りを経由して両国橋に到着。両国橋の御召し場から乗船し「橋場」(吾妻橋の南脇)で下船している。帰路も同じコースで両国橋の御召し場に戻り、七つ半時(午後4時頃)江戸城に帰った。
▼両国橋両脇の御成船発着場「御召場」
家斉の水戸藩下屋敷、沼津藩下屋敷「御通り抜け御成」
文政8年(1825)2月9日、11代将軍家斉は大川(隅田川)筋「御通り抜け御成」をした。
正式の御成だと、迎える側が御成御殿造営や設営など大掛かりな準備をしなければならないため、「表門から裏門へ通り抜ける形の略式訪問」をしたのである。
▼沼津藩下屋敷跡・水戸藩下屋敷跡
藤岡屋由蔵『藤岡屋日記巻六』はこの御成を次のように記している。
近世庶民生活史料『藤岡屋日記第一巻』三一書房 1987年(昭和62)
(※)は筆者(私)
「大川(※隅田川)筋へ御成、水戸殿(※水戸藩徳川家)小梅下屋敷並びに水野出羽守(※老中・沼津藩主水野忠成)下屋敷を御通り抜けなり。
其の節の落首に、そろそろと柳のうつる水の影 沢瀉(おもだか※水野家の家紋)のなかを葵が通りぬけ」
▼明治30年(1897)頃の「沼津藩下屋敷跡の浩養園」(写真提供・墨田区)
『本所区史』※によると「浩養園」は、文政年間に将軍家斉公が三河島村伊藤三郎に命じて築造。当時の権門家(※官位が高く権力・勢力のある家や人物)水野出羽守忠成(※老中 沼津藩主)に賜ったもので後、四季の遊興場となり、松平越前守(※春嶽 福井藩主)より更に佐竹右京太夫(※義厚 久保田藩主)のものとなった。 ※『本所区史』本所区 昭和6年(1931) (※)は筆者(私)による
▼水戸藩下屋敷跡の隅田公園
後方の墨区役所庁舎は沼津藩下屋敷跡
将軍家若君の「井伊家だけへの特別な御成」
「天下の先手」で「大老職に就く家柄」
『新修彦根市史第二巻通史編近世』「譜代大名井伊家」彦根市史編集委員会 彦根市 平成20年(2008)
一部抜粋要約 (※)と見出しも筆者(私)
「幕府の先陣つとめる別格の家柄」
慶長19年大坂夏の陣の戦功から「幕府の先陣をつとめる別格の家格」を受けた彦根藩主井伊家には、「将軍世子の若君が江戸城内東照宮、赤坂山王社の参拝後に江戸藩邸に御成する特別な御用」をつとめ、これを官位昇進につなげ、若君御供の大奥老女と井伊家正室との文通・交際が続く特権を得た。
井伊家は自他ともに認める「天下の先手役の家」で、その由来は慶長20年(1615)の「大阪夏の陣」で3代藩主直孝が戦功を挙げたことにあった。大御所徳川家康と将軍秀忠は、直孝に領地加増を行い、「日本の一番(武勇)」と賞した。これを機に直孝は「先手を仕切る井伊家」という意識をもち、やがてこれが藩全体の共通認識となっていった。そして井伊家が天下の先手であるという認識は、17世紀後半には幕府・諸大名の間に定着した。
「大老職につく家柄」
寛永9年(1632)年、直孝は大御所秀忠から幕政に参画するよう命じられ、後の「大老(※老中の上位で政治全般を統括。非常置)」職に就き、3代将軍家光、4代家綱のもとで幕政の運営を担った。これが井伊家当主の直澄・直興・直治(※直興を改名)・直英(※直幸に改名)・直中・直弼が大老に就く根拠となる。こうして井伊家は、徳川幕府の「先手の家柄」「大老に就く家柄」となった。
「将軍家若君」宮参り後に「井伊家御成」
皿海ふみ「若君の宮参りと井伊家御成ー井伊家奥向きとの関係を中心に」彦根城博物館叢書5『譜代大名井伊家の儀礼』彦根藩史資料調査研究会 彦根城博物館 2004年(平成16)
※一部抜粋要約 (※)と見出しも筆者(私)
江戸時代、諸大名は幕府からさまざまな御用を命じられ、将軍に奉公したが、「譜代大名筆頭の立場にあり、その家柄と先例によって、朝廷や日光(東照宮)への将軍名代などの御用を勤め、また将軍家の儀礼に関わって、将軍家若君の宮参り後の御成や元服の加冠役を勤めたが、これらは井伊家のみが勤めた特別な御用」であった。
家光が「世子がいないので養子をとって世継ぎとする」意向を示した時、井伊直孝が反対し、「歴代将軍は寅年の家康以来、干支の順に誕生しているので、来年の寛永18年の己年に若君が生まれるだろう」と予言。これが的中したため、家光が感心して宮参りの時に井伊家への御成を命じたという。
また当時の山王社は、江戸城内から現在の千代田区隼町(※最高裁判所辺りか?)に遷座しており、井伊家のすぐ近くという地理的理由もあった。宝暦13(1763)年の宮参りの行列は、大名・旗本、江戸城大奥女中の計950人と供の者からなり、井伊家が御成に要した費用は1万9800両に及んだ。
これ以降、井伊家への若君御成は吉例として慣例となるが、家綱に嫡子がなく、綱吉・家宣・吉宗と養子の将軍が続いたため、2回目の御成は元文2(1737)年9代将軍家重の長男竹千代(10代将軍家治)で、山王社は現在の千代田区永田町2丁目に遷座(現・日枝神社)していた。若君の御成は計5回、他に若君早世で予定が中止されたケースが3回あった。なお、世子以外の息男や姫君の山王社宮参りの場合は、井伊家ではなく他の大名家に立ち寄った。
▼山王社と井伊家上屋敷
▼彦根藩上屋敷跡(国会前庭北庭)から望む江戸城桜田門
「書院」を一時的に改造し「御成御殿」に
井伊家への若君御成では、御成御殿を新築せずに、書院の上段の間を改築して御成御殿とした。
元文2年(1737)9代将軍家重の若君(※世子)竹千代(10代将軍家治)の御成に際し、井伊家は御成御殿の新規造営を老中本多忠良に願い出た。しかし、幕府は御殿の新造は控え、書院の上段を御成御殿に仕立てるように指示した。
書院上段の間の天井の下に新しく天井を張り、今ある床の板敷の上に新しく板をはって、天井と床を二重にする形で書院上段を御成用御殿に改造。御成後には新規の天井と床を取り払って、もとの書院上段にしたのである。
若君御成で「正室が将軍家に呈書の形で挨拶」可能に
宝暦13年(1763)10代将軍家治の若君(※世子)竹千代(家基※安永8年<1779>死去)の御成を契機として、彦根藩主井伊直幸の正室(梅暁院)から大奥老女(※大奥第一の権力者「御年寄」)を通して将軍家に呈書(※進呈文書)を出すことが初めて許され、大奥女中との文通関係が開始。その後、三代にわたって、幕末まで正室と大奥女中の文通を中心とする交際が続いた。
井伊家のような将軍家と縁戚ではない大名家は、正室の側から将軍家に挨拶を行うことはできなかった。しかし、例外的に井伊家は、若君の宮参り後の御成という儀礼において正室が若君に御目見することにより、正室から大奥を通して呈書を差し出す形で、将軍家に挨拶をおこなうことが許されるようになったのである。