美風の「殉死」をなぜ禁止?禁令破り「広島藩主夫人の夫への諫言切腹を奥女中が介錯・殉死」!

殉死禁止令 殉死禁止令

主君の死に際して家臣が切腹する「殉死」は、戦国時代には武士の忠誠心を示す美風とされたが、徳川家康はこれを人材の喪失として批判、4代将軍家綱はこれを禁止した。

この「殉死禁令」について、私が『土木施工』連載「なぞのスポット東京不思議発見」に掲載した「美風の殉死をなぜ禁止」で説明。そのあとに、「殉死禁止令」に背いて決行された「広島藩主夫人の藩主への諫言(いさめること)自害(切腹)を奥女中が介錯・殉死」した話を紹介する。

藩主吉長藩政改革に積極的に取り組み―急進的すぎて藩重職の反発や一揆を招き成功には至らなかったが―幕府の儒学者室鳩巣むろきゅうそう「当代一人の賢侯」評した大名だった。また夫人奥女中たちは女武芸者別式女べつしきめ)であった。

三田村鳶魚「大名の女腹切り」によると、「には切腹には自害というのが通例」だという。そこで本稿では、タイトルと見出しはわかりやすい「切腹」とし、本文では「自害」とした。

美風の「殉死」をなぜ禁止?打算的な「殉死」に変質!

「なぞのスポット東京不思議発見」『土木施工』山海堂 平成17年(2003)10月号
▼徳川家康は「殉死」を「人材の喪失」と批判

「なぞのスポット東京不思議発見」

▼義を重んじた「義腹」から打算的な「論腹」「商腹」へ変質し「殉死禁止」 

「なぞのスポット東京不思議発見」

上野寛永寺山内厳龍院墓地「殉死者の墓」史跡説明板

殉死者之墓

殉死者の墓

台東区上野公園十八番 現竜院墓地
慶安四年(一六五一)四月二十日、徳川三代将軍家光が死去し、後を追って老中堀田正盛阿部重次ら家光側近の臣とその家臣殉死した。寛永寺山内現竜院に葬られるこの時の殉死者は次の通りである。

 老中下総佐倉藩(※)主堀田加賀守正盛
 老中武蔵岩槻藩(※)主阿部対馬守重次および重次に殉じた家臣五名 
 下野鹿沼藩(※)主内田信濃守正信および正信に殉じた家臣二名
 元書院番頭(※)三枝土佐守守恵および守恵に殉じた家臣一名

殉死とは、主君の死を追って従者妻子らが自殺することで、とくに武士の世界で戦死した主君に殉じ切腹するという追腹(おいばら)の習慣があった。戦乱の絶えた近世に入ってもこの風習は残り、将軍藩主に対する殉死者が増加、その是非が論議されるようになった。四代家綱の時代寛文三年(一六六三)、幕府は武家諸法度改正にさいし殉死禁止、この堀田正盛らの殉死が最後の事例となった。
平成三年三月
      台東区教育委員会
(※)は筆者(私)
下総しもうさ佐倉藩 千葉県佐倉市  
堀田正盛殉死した日殉死している               ※武蔵岩槻藩 埼玉県さいたま市岩槻区  ※下野しもつけ鹿沼藩 栃木県鹿沼市                     ※書院番頭 将軍を警護する騎馬親衛隊を率いる

「堀田正盛らの殉死」について「新井白石の評価」 慶安四年(1651)の「堀田正盛らの殉死」から51年後の元禄15年(1702)、儒学者新井白石は、甲府藩主徳川綱豊(後の6代将軍家宣)に命じられて著作した、諸大名家の家伝集藩翰譜はんかんふ』を献上。正盛らの殉死について次のように評している。 (※)は筆者(私)

此頃までは戦国の余習(※習慣 仕来り)いまだあらたまらず、殉死忠義と思ひ定めて、かゝるひたぶる(※ひたすら)に(※忠義心)を決したりとみへたり。其時勢(※移り変わる時代の勢い)思ひやられて、いと哀れなる事ども也。                              『藩乾譜』国立公文書館所蔵資料特別展         https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/daimyou/contents/02.html

「殉死禁令」破り広島藩主夫人の「切腹」を奥女中が「介錯・殉死」

我が国の中央官庁街「霞が関」。桜田通りを挟んだ両側に官公庁が立ち並び、要所に配備された警備車両と警官の姿に、ここが政治の中枢・要衝であることを実感させられる。

警視庁の南隣りには合同庁舎第二号館(総務省など)、合同庁舎第三号館(国土交通省など)があるが、第二号館の辺りは安芸国広島藩(芸州藩 広島県)42万6千石の上屋敷の跡である。
広島藩上屋敷跡千代田区霞が関2丁目 警視庁(手前)後方の合同庁舎第二号館など一帯

広島藩上屋敷跡

広島藩主吉長の夫人節の人となり                               「譚海」津村淙庵『日本庶民生活史料集成第八巻 見聞記』三一書房 1969年
「譚海」は江戸時代の和学者・随筆家津村淙庵の随筆集。天明寛政時代の世相や流行を記録した見聞録。  ※<>は文中の注 文字の太字化と(※)は筆者(私)

松平安芸守様奥方※1は、加賀守御妹也。賢女にましてまして、急度きっと屹度きっとしたる(※きちんとする)ことを好せ給うゆえ、召し仕える女房まで御前に居る時は、足をくつろがさず腰をのしてしゃんとすわるよう成るものを好ませ給う。

安芸守様奥へ入せられ、奥方の膝膝を枕にして休ませ給うに、その御目覚めぬ内は、時刻移れども、少しも膝を動かし給うこと事なくありしと也。                            ※1 広島藩主浅野吉長の正室は、(※加賀藩4代藩主)前田綱紀の女(養女)で、五代藩主吉徳の 妹にあたる

加賀藩士『 続漸得雑記』の「広島藩主夫人切腹 奥女中介錯・殉死」

 続漸得雑記ぞくざんとくざっき
『加賀藩史料第六編』前田育徳会 清文堂出版 昭和55年(1980)昭和8年(1933)版の復刻
  本文の一部抜粋と現代文要約、見出し設定、本文太字化、注釈(※)は筆者(私)による 

武芸・乗馬・薙刀なぎなたに長けた」夫人と「一騎当千の強者」奥女中                広島藩主浅野吉長御内室(※夫人)節は、加賀藩(※石川県)藩主前田綱紀の息女(※養女)で、(※元禄12(1699)年に19歳で輿入れ、吉長より1歳年上)。武芸の心得のある女性で、乗馬・打物(※で戦うこと)に秀で、特に薙刀(なぎなた)に熟達。召し仕える奥女中も皆、勇気があってたくましく一騎当千のつわもの(※武芸奥女中 加賀藩では「別式」と称した)であった。

この御内室安芸の御前と申して、日本に隠れなき勇気第一の女性なり。

武芸奥女中については当ブログ「宇江佐真理「名もなき日々を」茜の別式女とは?」に詳説
https://koukisin-sanpokoukogaku.com/blog/?p=2194

別式女(武芸奥女中)

藩主吉長「身請けした遊女と陰間を連れ参勤帰国へ」
節の憂慮「身請けした遊女と陰間帯同の参勤帰国は御家の一大事」            吉長は御仲よく安芸の御前と申して、日本に隠れなき勇気第一の女性なり。しかるに吉長は、いかなる所為か新吉原へ通い、昼夜酒食色におぼれ節が意見したが止まず、ついには遊女花紫歌野身請け。さらに芝神明宮前野郎陰間(※男娼)二人身請けした。


▼新吉原町『江戸名所図会』 台東区千束4丁目

新吉原遊郭

▼飯倉神明宮(俗称・芝神明宮)『江戸名所図会』 港区芝大門1丁目

飯倉神明宮(芝神明宮)『江戸名所図会』

節の諫言に「吉長激怒し国許へ出立」 節は「諫言切腹」                 「大名が遊び者を身請けすることはあることだけれど、彼らを国元に帯同するとは余りにも度が過ぎた行状で、上様のお耳に届いたらよろしからず」と節が意見すると、吉長腹を立て参勤帰国の際の儀礼「暇乞い」をしないまま国許に向かった(※三田村鳶魚「大名の女腹切り」は「享保15年<1730>9月16日に出発のため青山下屋敷に移り、28日発駕」とする)。

は、「殿のかような振る舞いを諫(いさ)める者が家中に一人もいないとは」とつぼね(※奥女中を取り締まる「老女」)に嘆いて部屋に戻った。そしてである加賀藩主前田吉治に宛てた書置を認めたのち、51歳一期いちご(※生涯)として腹を一文字にかき切りうつ伏せになった。

奥女中たちがうろたえるなか、奥女中外山沢井中老(※局(老女)に次ぐ地位)の豊田が抱きかかえ、医師に気付を申し付けた。そんな様子を聞きながら節は「そちたちは、日頃のほどもなき有様」「かねて覚悟のことぞかし、騒ぐことなかれ」「豊田介錯を」と命じた。

奥女中「殉死」志願を節「御禁制」と制止した後「お許し」
豊田と御局の外山沢井が「我らも追腹(※切腹して殉死すること)します」と述べると、「殉死は幕府の禁制である」からと諌め、「嫡子岩松(※のちの藩主前田宗恒の行く先見届けるよう」に命じた。

奥女中の豊田外山沢井が「御勘気を蒙(こうむ)ろうと御供せずにいられましょうか。お許し下さい」と懇願すると、は「日頃みづからが目がね違いなし。嬉しい志しかな」「しからば外山沢井供いたせ」「豊田は介錯し三十五日忌が過ぎたら勝手次第」と申された。

三人は「ありがたき次第」といって、外山沢井切腹、これを豊田介錯した。哀れと云うもおろかなり。

節の弟「加賀藩主前田吉治の激怒」と帰国途中の「吉長の後悔」
事件を知らされた前田吉治は早馬で広島藩上屋敷に駆け付け、「吉長を呼び戻せ」「事の理非をたださん」と憤り、藩は参勤帰国道中吉長に注進吉長は大いに驚き先非を悔いた

幕府に「節の急死病届」提出し「改易・減封回避」
三田村鳶魚「大名の女腹切り」『鳶魚江戸文庫11武家の生活』朝倉治彦編 中公文庫 中央公論社 1997年 
幕府の法度では夫人逝去のために引き返すことは出来ないため、吉徳と相談の上、表向きは急病死の届を幕府に出して、改易・減封の危機を回避。幕府の弔問は嫡子の岩松が受けた。

介錯した中老豊田は三十五日忌あけに「菩提寺青松寺せいしょうじで切腹」
「 続漸得雑記」『加賀藩史料第六編』前田育徳会 清文堂出版 昭和55年(1980)昭和8年版の復刻
豊田は三十五日過ぎて、(※広島藩の菩提所(※青松寺)に於いて見事に自害して果てたり。まことに一人の心より不慮の大変起こりて、いたましき事となれり。

▼萬年山青松寺「江戸名所図会」 港区愛宕2丁目

青松寺『江戸名所図会』
青松寺

「 続漸得雑記」金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵データベースはこちら
https://jmapps.ne.jp/amhr/det.html?data_id=1096

広島藩主吉原通いの案内役は「出入りの能役者」

三田村鳶魚「大名の女腹切り」『鳶魚江戸文庫11武家の生活』朝倉治彦編 中公文庫 1997年
一部抜粋要約 (※)※は筆者(私)による

能役者が御供
広島藩主浅野吉長の吉原通いの案内役は、御出入の能役者、金剛座脇師(※ 能楽 で ワキ をつとめる 役者 )高安安彦太郎で、新町大菱屋の花紫に指を切らせたとやらで、二朱判吉兵衛の『大尽舞』の文句に出てくるほどの代物、これが、取り巻きとか末社とかいわれて、御案内役を承ってのこと、諸大名の廓遊びには、こういう者がついております。お出先の万事は、高安が一切心得て取り計らうのです。

吉長の吉原通いは、世間の聞こえはよろしくない、夫人からも御意見なすった。しかし、ついに三浦屋四郎右衛門抱えの太夫花紫、同孫三郎抱えの格子(※太夫の次、局の上の階級)歌野落籍させて、屋敷へ引き取られました。

その上に、芝神明前陰間(※男娼)を二人までも請け出されました。この時、老臣重役以下一人も諫言を申し上げる者がなかった

参勤帰国に遊女帯同した大名たち                                浅野吉長は請け出した遊女二人、陰間二人帰国の節、お供に召し連れることに決められました。時は遅れて、尾州藩(※尾張藩)主徳川宗春遊女春日を、姫路藩榊原政岑まさみね遊女高尾を、帰国の時に召し連れられました。

【地元広島県の事件史料】
「なぞのスポット東京不思議発見」の執筆に際し、広島県立図書館にこの事件に関する地元史料を問い合わせたところ、次のような回答を頂いた。太字化は筆者(私)

『広島市史第二巻』広島市名著出版1972年
p116 内室節姫
「加賀宰相前田綱紀の女,元禄十二年十一月二十一日入輿,享保十五年九月二十九日逝去せらる、源光院殿と号し、江戸青松寺に葬らる」
P257
「九月二十九日、藩主吉長の夫人源光院節姫、江戸に於いて逝去せらる、江戸青松寺に葬る」
※これ以上のことは記載されていません。

『文筥:劔梅鉢に生きた女人たち』 横山方子/著、能登印刷出版部2007
p166
「父網紀と多くの手紙を交わした節姫は、父が他界してから六年後に夫に抗議して、悲劇的な最期を遂げるのだが、詳しくは書くにはしのびない。それについては、『加賀藩史料』第六編に詳らかなので、当稿では触れないでおこう。」

『加賀藩史料 第6編(自正徳4年 至元文2年)』は、当館では所蔵していません。                

               


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