綱吉法要御馳走人「大聖寺藩新田前田利昌が柳本藩織田秀親を刺殺」!浅野の討ち損じ教訓に「少刀必殺」!

綱吉法要刺殺事件

加賀百万石金沢藩(加賀藩)の支藩である大聖寺だいしょうじ藩から藩内の新田の石高相当額を与えられた前田利昌は、5代将軍綱吉法要の公家御馳走人役となるが、同役の柳本藩(奈良県)藩主織田ひでちかに恨みを抱き刺殺した。

私はこの話を東京新聞連載「東京ふるさと歴史散歩」に「石川県の巻・大聖寺藩新田領主が綱吉法要の寛永寺で刃傷」と題して掲載している。この連載は当ブログ「津和野藩主が吉良上野介に殺意」の際に記したように、東京新聞の意向で「散歩ガイド」の記述にスペースを多く割く構成だった。
  「津和野藩主」の回はこちら  <https://koukisin-sanpokoukogaku.com/blog/?p=1263>

そこで今回のブログでは「東京ふるさと歴史散歩」の記事は転載せず、執筆資料の『石川県史』『加賀藩史料』『大聖寺藩史』をもとに事件の経緯を詳しく説明する。

事件の前日、前田利昌家老に「吉良上野介を討ち損じた浅野内匠頭の刀さばき」を例に、少刀による刺殺法を教わっている。そこで浅野と吉良青野藩主稲葉正休まさやすと大老堀田正俊の二つの刃傷事件を例に、少刀刺殺方法を記した江戸時代の黒甜瑣語こくてんさごも紹介する。

また、この話の簡単なあらすじをYouTubeショート松本こーせい「綱吉法要で大聖寺藩新田前田が柳本藩主織田を刺殺#shorts」と題してアップしたのでリンクする。

『石川県史第二編』石川県 昭和49年(1974)
「采女利昌と寛永寺の凶変」 「秘要雑集」 中村典膳筆記「松雲公夜話」
『加賀藩史料』前田育徳会著 清文堂出版 昭和55年(1980)
[前田利昌柳本侯織田秀親を刺殺す]「前田家雑録」「政隣記」「利昌公織田監物御殺害之始終雑記」(※『加賀藩史料第五編』には始終雑記と始終記とする表記が混在 『大聖寺藩史』は始終雑記とする)
『大聖寺藩史』大聖寺藩史編纂会著 江沼地方研究会発行 昭和13年(1938)
「前田利昌の刃傷」[岡田弥市郎手記]

なお上記資料は、利昌と秀親綱吉法要での役名を次のように記している。『石川県史第二編』は接伴役、[松雲公夜話]は御馳走御馳走人、「前田家雑録」「政隣記」「利昌公織田監物御殺害之始終記」は御馳走人、『大聖寺藩史』は接伴役御馳走人と記載する。

そして最後に、柳本藩の地元奈良県の資料に記された事件の記述を紹介する。                                      
                       

YouTubeショート松本こーせい「綱吉法要で大聖寺藩新田前田が柳本藩主織田を刺殺#shorts」

YouTubeショート松本こーせい「綱吉法要 大聖寺藩前田が柳本藩主織田を刺殺」

大聖寺藩各所の「新田年貢米1万石相当額支給」の「大聖寺藩新田」

大聖寺藩7万石は金沢藩(加賀藩)102万石前田家の支藩で、2代藩主前田利直は元禄4年(1691)綱吉の奥詰(※)を命じられ、譜代大名と同様の待遇をうけた。
  ※5代将軍綱吉の時だけに設置された幕府の役職。任命された大名は隔日交代で江戸城で将軍の諮問に答申。
利直は翌5年に家督を相続、弟の利昌への領内の新田1万石分与を幕府に願い出て許可された。そして7年、利昌は利明に伴われて将軍綱吉に拝謁諸侯(大名)の班に列せられた

しかし、利昌に分与された「その新田なるものは、大聖寺藩領内の各地に開発したものなるをもって、利明は利昌に知行(※領地)の所付ところづけを与えることなく廩米りんまい(※幕府や藩の蔵に蓄えた年貢米)をもって租入(※年貢収入)に相当する額を支給、したがって別に藩名を起こさしめたものではなかった」(『石川県史第二編』)。

つまり利昌に与えられたのは「大聖寺藩の知行を分地した支藩」ではなく、「大聖寺藩内各所に開かれた新田の年貢米1万石相当額の分与」であった。

そして、利昌が刃傷事件で切腹すると、この新田の1万石は大聖寺藩に返された。

「少刀刺殺法」知らず?吉良上野介を討ち損じた浅野内匠頭

前田利昌は浅野内匠頭吉良上野介を討ち損じた失敗を例に「少刀での刺殺方法」を家老に尋ねている。そこで浅野の討ち損じ稲葉正休まさやすの堀田正俊殺害を例に小刀の使い方を説明した黒甜瑣語こくてんさごの記事を紹介する。

最初に突き!その後に斬る!!「少刀刺殺法」

『黒甜瑣語』享和元年(1801)
人見寧(子安)著(他)人見竜輔 校 人見寛吉出版 明治29年(1896)
 ※字間 行間 段落の設定、 現代語への要約、補筆[]、(※)は筆者(私)による
〇初ては突の狂歌                                                      短刀で人を殺そうとする者は、まず最初に突きえぐり、その次に斬るべきだといわれているのは、道理にかなっている。
元禄14年(1702)に江戸城松乃廊下で]浅野内匠頭吉良上野介を斬り損ねると、当時の人々は「最初は突いて二度目に切りつけることを[浅野は]なぜしなかったのだろうか。[稲葉石見守正休まさやす]が短刀で[堀田正俊刺した際にえぐられた柱の傷跡の穴を見ただろうに」といって取り囃した。

これは貞享の頃[元年1684 5代将軍綱吉)]、[大老の]堀田筑前守[正俊」が[若年寄稲葉石見守[正休]に江戸城内で刺殺された事件※のことをさしている。
稲葉が最初に突いた時の深い傷痕(あと)が柱に残っていて、「浅野はその穴を眼前にしながら、抜き打ちにして仕損じてしまった」と口の悪い人々が笑ったというのだ。
 ※古河藩(茨城県)藩主で大老の堀田正俊が、青野藩(岐阜県)藩主で従弟いとこにあたる若年寄の稲葉正休に江戸城内 で刺殺。稲葉はその場で他の老中らに討たれたため、事件の動機は不明とされる。

『黒甜瑣語』国立国会図書館デジタルコレクション公開                                       貼り付け元  <https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000519420-00>

「仮名手本忠臣蔵」奥田忠兵衛
明治19-20 国会図書館デジタルコレクション インターネット公開(裁定)

前田利昌の「浅野内匠頭の刃傷批判」と「少刀刺殺の心構え」
元禄16年(1703)2月に赤穂義士は吉良邸に討ち取り本懐を遂げたが、赤穂義士泉岳寺の墓地を見学した前田利昌は、浅野内匠頭の刃傷について次のように語っていた。

『大聖寺藩史』
 ※字間 行間 段落の設定、現代語への要約、補筆[]、注(※)は筆者(私)による
内匠頭は思慮浅薄のため多数の家臣を死に至らしめた。もし敵を殺したいときは、急迫して刺殺すべし。事に臨んで狼狽し、切り損じて封土を失い多数の臣僚を流離せしめるのは、まさに男子一生の恥辱というべし。後年利昌は長矩ながのり(※内匠頭)と同じような事情で織田秀親を刺殺したが、その言動はこのような平生の言に違わないないものだった。

綱吉法要の公家御馳走人の間に生じた「遺恨と殺意」

5代将軍綱吉法要に派遣された公家衆の御馳走人をつとめる大聖寺藩新田領1万石前田采女うねめ利昌(25歳)が、同役の柳本藩(奈良県天理市)1万石織田監物けんもつ秀親(48歳)を刺殺した事件について、『加賀藩史料』『石川県史第二編』『大聖寺藩史』の記述と所収の資料をもとに説明する。

『石川県史第二編』は事件の時代背景に言及。「綱吉の治政が華美をたっとび儀礼を重んじたため、儀礼や典礼に慣れたる者が往々にして他を侮辱して自ら禍を招いた」「8代将軍吉宗が慶弔に朝廷からの使者を辞退したのは、幕府の費用節約のためとされるが、綱吉治世の禍源を除くためでもあった」としている。

利昌と秀親「対照的な人物像」と「遺恨から殺意へ」の経緯

宝永6年(1709)1月10日に5代将軍徳川綱吉が死去、2月28日に廟所に遷座し29日より法要が予定された。2月16日には新将軍家宣いえのぶが上野寛永寺の霊廟に参拝、東山天皇は故綱吉諡号しごう(※貴人、高僧などに死後におくる名)を贈るため、勅使院使を派遣した。
法要の宴が尾張藩の宿坊(※寺や神社の宿泊施設)「顕性院」で予定され、前田采女利昌は中宮使(※皇后・皇太后・太皇太后の使者)の御馳走人織田監物秀親は大准后使の御馳走人に任命された。

織田秀親は茶人大名として有名な織田有楽うらく斎(※織田信長の弟である織田長益  東京都千代田区有楽ゆうらく町の町名は有楽斎の屋敷にちなむ)の子孫であった。身幹魁偉で剣術に長け、礼法・儀式につうじており、織田信長の家系を鼻にかけていたという。そんな秀親については、「油断のならない大曲者で、諸大名や近辺の方々は曲者とみなしていた」(「秘要雑集」※)とする人物評があった。
 天明4年(1874 10代将軍家治)頃作成の大聖寺藩に関する記録。北海(児玉仁右衛門)関係者の編。

一方、前田采女利昌は「御器量御面体、さながら采女(※宮中の女官のひとつ)とも申すべき美しい御顔体で、御力も余程御座候」(「利昌公織田監物御殺害之始終雑記」)だったという。

利昌は年長者の秀親に尋ねながら御役目をつとめていたが、秀親は利昌を「そこもとは未ニ歳(※二歳程度)じゃ」呼ばわりし、役目の申し合わせを勝手に違え、しばしば利昌を出し抜くなどの言動をかさねた。そんな秀親の傲慢さに利昌は怒り遺恨をつのらせ、事件の数日前には殺意を抱くに至った。

秀親を討つ覚悟を決めた利昌は事件の前日、大聖寺藩中屋敷(※文京区千駄木3丁目3~10)に住む母親の慈眼院に「武士は事により堪忍ならぬことがあったならば、不慮のこともあるから驚かれませぬようにと申されたので、慈眼院は厄除けの御守を渡された」(「前田家雑録」)

「浅野の吉良討ち損じ」を例に家老に「少刀刺殺」の教え乞う
利昌の秀親への恨みと怒りを知った家老木村九左衛門は、「短慮なことをなさいませぬように」と忠言したが、利昌の殺意には思いが至らなかった。
そして事件の前日、利昌は「浅野内匠頭の刃傷事件」を例に、木村に「人は切りたるがよきか、突きたるがよきか」と尋ねたが、武芸についての話は毎度のことなので、木村は少刀での刺殺方法を丁寧に説明した(「秘要雑集」)。
そのため事件後、木村は利昌の殺意に気づかなかったことを悔やみ、後悔したという。

利昌の速攻少刀刺殺 秀親の家来と間違え家臣も斬る

前田采女利昌による織田監物秀親刃傷事件は、宝永6年(1709)2月16日未明、綱吉法要の準備中に尾張藩の宿坊「顕正院」で起きた。

東京新聞「東京ふるさと歴史散歩6石川県・大聖寺藩新田領主が刺殺」 平成20年(2008)7月19日

▼刺殺現場の「顕性院」はJR上野駅アトレと左隣の高架下辺りにあった

▼上野駅公園改札口の右隣下の線路辺りが刺殺現場「顕性院」跡

現場目撃家臣の「手記」と江戸詰家臣の「報告」に見る刃傷詳細
『石川県史第二編』「秘要雑集」を江戸の家臣たちが藩に報告したなかで、最も前後の事情を詳悉すると評価。『大聖寺藩史』は喧騒を聞いて現場に駆け付けた家臣の目撃談「岡田弥市郎手記」を「殺害実況について数種の記録があるが、最も詳しく信ずるに値する」と評している。これらの記録が記す「事件に至る経緯」と「殺害状況」は次のようなものだった。

宝永6年(1709)2月15日夜半、利昌や監物などの御馳走人は尾張藩の宿坊「顕正院」に出勤16日明け方には諸大名も集まり勅使以下の人々が衣装を着用しようという時分事件は起きた。
 ※字間 行間 段落の設定、現代語への要約、補筆[]、注(※)は筆者(私)による
公家方の装束を岡田たちが取り次いで、書院の上の間に持参していた時、利昌が監物を呼び廊下の行き当たりの所に行って、一言二言問答をした後、利昌が刀備前則光で監物の胸の下を背中にかけて貫いた。つぎに足をけかやし首から左肩にかけて切り付け、さらには腰の辺りと計三か所を切り付けたのだ。
明け方でまだ暗かったため、利昌は駆け付けた岡田弥市郎監物の家臣と勘違いして切り付けた。利昌は現場を去るときに、監物の死骸にらみつけた(「岡田弥市郎手記」)という。

浅野の吉良討ち損じを教訓にした利昌の少刀作法と、監物への激しい怒りと恨みが伝わる目撃談である。

殺害直後の現場に家老の木村九左衛門がかけつけると、利昌は「この場で自殺すべきか」問うた。木村は「御本望とげられたる上は御病気と仰せになり、一応御屋敷へお引き取りなさるべき」と答えた(「利昌公織田監物御殺害之始終記」)。

木村と岡田は利昌を伴って門外に出、家臣らを呼んで病気を装う利昌を駕籠に乗せ、木村は利昌の馬に乗って黒門を抜けて池之端を通り、屋敷(※文京区根津2丁目8、7)へ帰った(「秘要雑集」)。

『大聖寺藩史』は大聖寺藩の宿坊「常照院」が事件現場の「顕正院」と隣り合わせだったことが、「本事件の突破に際し幾多の便宜を得たる所以なるべし」としている。

「狂気の殺害」利昌に切腹 「狂歌」に詠まれた刃傷事件

事件当日の2月16日、幕府は利昌の身柄を山城淀藩(京都)6万石藩主石川義孝の上屋敷(※台東区上野1丁目1~13の全体と14~17の南側部分辺り)に預け、18日に切腹を命じた。
 其方儀 東叡山(※寛永寺)に於て織田監物を殺害、心狂といえども、監物相果て候に付 切腹仰せつけられ候。
こうして利昌は即日切腹した。享年について『石川県史第二編』は26歳。「利昌公織田監物御殺害之始終雑記」は25歳と26歳が混在している。
利昌の屋敷は切腹後、大聖寺藩主前田利直の預かりとなったが、2月21日幕府は内藤図書の屋敷とするとした。

「利昌公織田監物御殺害之始終雑記」は、江戸で詠まれたこの事件の狂歌を掲載。監物(剣持つ)、盃(逆突き)、おた首(織田首)が掛詞になっている。
 おだどのは けんもちながら 手もさゝで 采女の君の盃にあふ
 あいたおた首を まへ田におとされて けんもつかひは なかりけるかな

利昌の切腹後、家老の木村九左衛門は剃髪して道斎と称した。また岡田弥市郎は利昌に受けた刀痕を孫に見せては、「これは主君より蒙りし恩恵の痕なり」と話していたという。
利昌にはまだ正室はなく側室が一人いたが、利昌の切腹後に剃髪し菩提寺の広徳寺(※台東区役所の所にあったが練馬区桜台に移転)に墓参を重ねた。
なお、柳本藩は織田監物の死後、養子の成純なりとし相続を果たしている。

柳本藩の地元「奈良県の資料」が記す「秀親殺害」

奈良県立図書情報館への「大和柳本藩織田秀親刺殺に関する」問い合わせと回答          2008年(平成20)3月19日
私は東京新聞連載「東京ふるさと歴史散歩」[6石川県の巻・大聖寺藩新田領主刺殺]の執筆に際し、柳本藩の地元である奈良県立図書情報館に「この事件に関する地元文献の記述」を質問。次のような回答を頂戴したので、参考までに全文を紹介する。<>と回答文の太字化は筆者(私)による

回答:当館所蔵資料『柳本織田家記録』には、(前略)…殿様御事、御宿坊恵恩院ニ而前田采女殿乱心ニ而一討ニ御うたれ被遊候、…(略)と掲載されています。
『柳本郷土史論』柳本織田家記録「織田秀親」には、寛永<正しくは宝永>六年常憲院殿五代将軍綱吉新葬の法会行はるるにより中宮使下向の時、前田采女利昌と共に饗応のことを承り接待中二月十六日東叡山の宿坊に於いて利昌が発狂し、ために殺害さる。・・・(略)と記載されています。
『天理市史 本編』の柳本藩略史には柳本織田氏の系譜が掲載されていますが、略記として「四代 秀親監物・源七郎 寛永<正しくは宝永>六・ニ・一六死、四十七才」と記載されているだけです。なお『奈良県の歴史』には掲載個所がみあたりません。
奈良県関係資料ではありませんが『藩史総覧』の柳本藩の掲載部分には、「寛永寺宿坊で殺害された」と記載されているだけです。


 

  



 

 









     

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