大名の婚姻手続とは?「久保田藩見合い相手美人姫は替玉」「黒羽藩婿藩主が妻離縁し隠居迫られ座敷牢」 

大名婚姻の騒動話 大名婚姻手続と騒動話
替玉見合い姫・婿養子藩主が妻離縁

今回は「江戸時代の大名家の婚姻の手順」婚姻にまつわる騒動話」を紹介する。「大名の縁組手続き法令」が設定される前は、「将軍家光の乳母春日局が諸大名の娘の嫁ぎ先を命令」していた。8代将軍吉宗のときに制度化された「大名婚姻法令」の「縁組伺・出願許可」から「結納・婚礼」までの手続きと、老中たちへの「御礼の献上物」を説明する。

そのあとに、「久保田藩佐竹家見合い相手美人女中による替え玉とバレて離縁」の目撃談と、「黒羽藩大関家婿養子藩主夫婦仲悪く妻を離縁。これに対し重臣隠居迫り座敷牢押し込め」を紹介する。

当ブログの予告編的【YouTubeショート動画松本こーせい】「大名の婚姻騒動 久保田藩・黒羽藩」をアップしたのでリンクする。

【参考文献】
・『鳶魚江戸文庫25お大名の話・武家の婚姻』三田村鳶魚著 朝倉治彦編 中公文庫 1998年(平成10)[三田村鳶魚「武家の婚姻」『江戸の生活』大東出版社 昭和16年(1941)]         ・『増補幕末百話』「大名の御婚礼」篠田鉱造 岩波文庫 1997年(平成9)[『増補幕末百話』萬里   閣書房 昭和4年(1929)]
・『黒羽町誌』黒羽町誌編さん委員会 黒羽町 昭和57年(1982)
・『新編物語藩史第2巻』「黒羽藩」監修児玉幸多・北島正元 新人物往来社 1976年(昭和51)

大名の婚姻手続き「縁組伺・出願・許可から結納・婚礼・御礼」まで

『鳶魚江戸文庫25武家の婚姻』「法令になった縁組手続き」大名婚姻法令の縁組手続き
 一部抜粋 [見出し]()は筆者(私)による

法令になった縁組の手続き
[法度以前は春日局が諸大名の娘の婚姻先を命令]
法度が出るに先立って、3代将軍(※家光)の時分に、幕府は春日局(※家光の乳母)を使って、御法度よりもう少し進歩した結婚監理(※監督と管理)を行っております。

諸大名の娘を柳営(※幕府、将軍家)へ呼び、春日局がそれを見て、誰は誰のところ、誰は誰のところというふうに一々命令した。この時分から、結婚は仰せ出されの婚礼と、願い出による婚礼と、二通りになったのです。

[享保期に大名縁組手続きの法令化]
けれども、その手続きや何かを書いたものは、古いところにはないのですが、享保(※きょうほう)15年(※1730 8代吉宗)になりますと、大名の縁組についての手続きが、法令になって出ております。

[縁組伺い]
その意味は、大名縁組をするに当って、双方から、心易い旗本(※1)をもって、老中年嵩(としかさ※年長)なところへ伺い入れる。
この心易い旗本というのは、お出入の旗本と申しまして、どの大名衆にも、必ず幾人か親しく出入りする者がありました。
 ※1 藩と幕府の折衝に必要不可欠な旗本 
 『新編千代田区史通史編』「旗本と大名」
 藩が幕府へ提出する願い窺いなどは、内々に幕府老中)の意向を確かめてから、正式な届、願書、窺いを
 提出するのが普通で、この内々に幕府(老中)の意向を伺う時に介在したのが旗本であった。
 また幕府の方からもそれとなく幕府施策の意向を伝える役割を果たしたも、旗本だった。このような旗本は、藩と 
 府の折衝なくてはならないものであった。萩藩では、このような旗本を「心安き旗本衆」と呼んでいた(『江戸御留守居役の日記』)

[縁組願い]
大名縁組をするに当っては、まず年嵩(としかさ※年長)の老中と打ち合わせておいて、今度は御用番(※老中は4~5人からなる月番制であった)のところ、またその旗本をもって、双方から縁組のことを願い出る。
すると、「御用の義について、何日何時に登城すべし」という老中連名切紙(※将軍の命令を下位の者が仰せつかって書く「奉書」)が両方へ来る

そこで、両方からの御用番の老中までお請けの使者を出しまして、両方の大名登城すると、老中から改めて、「願之通縁組被仰付」と言って許可する。これは口頭です。許可された大名は、お礼勤めといって老中のところを回ります。

この言い渡しには、自身でなくていいので、某人が在国の場合には、その子または親類が幕府の召しに応じますし、お礼もまた、代人で差支えないのです。

[結納・婚礼]
結納の時には、双方から年嵩の老中のところへ使者を出します。婚礼の日取りは、双方申し合わせて、御用番の老中のところへ願い出る。そうすると、「婚礼日限相極」という切紙が出るのです。これにも、お請けの使者を出して登城します。

婚礼が済みますと、「明幾日何時登城婚礼可申上」という老中連署の切り紙が出る。これにも、お請けの使者を出して登城します。

[御礼・献上物][進上物]
老中へ回礼が済むと、御留守居献上物伺いを致しまして、何々がよかろうという差図を得てから、家老御留守居献上物を持って登城して、奏者番(※大名・旗本将軍謁見や献上品などの担当役)の家来に渡して献上を頼む、また、使者をもって、老中達に、婚礼相済みましたというお礼を勤め、年嵩の老中進上物をするのです。

[万石以下の婚姻手続き]
万石以下の婚礼にはこういう手続きはありません。所属の長官まで願い出るので、命令そこで受ける。従って、登城・献上物・礼勤めなどということはない。ただし、所属の長官のところへはお礼に行きます。

久保田藩の「見合い相手の姫は美人女中が替え玉とバレて離縁」

『増補幕末百話』「大名の御婚礼」篠田鉱造 岩波文庫
『増補幕末百話』は聞き手(篠田鉱造)による補足説明がないので、話し手の話す事柄が「何時の誰のことなのか」残念ながら判然としないところがある。
 一部抜粋 [](※)は筆者(私)による
[出羽秋田(秋田県)久保田藩(通称秋田藩)20万5千石]
▼久保田藩佐竹家上屋敷跡の「佐竹商店街」(台東区台東3~4丁目)

佐竹様の御婚礼
私は[久保田藩主]佐竹様奥御口御用達でしたが、お大名の御婚礼と申しますと、御見合等はある邸(ところ)もありない邸(やしき)もありますけど、(略)御輿入(おこしいれ)になります御縁女(ごえんじょ)が、毎度ながら月と鼈(すっぽんん)の違いとなりますが、高貴方(がた)そうはそう参りません。

御輿入れの御姫様
筋違(すじかい)の御大名様から、御輿入(おこしいれ)の御姫様というのが、御では、花のようなソレは美しいお方様とのことで、周囲(あたり)八方御光がさすだろうとの話であった、(略)
佐竹様は殿様が皆美男であらせられた。ソノ美男と麗しい姫様との御婚礼。(略)愈(いよいよ)御輿入(おこしいれ)となりました。

美人揃い八人
御姫様の御駕籠側(わきへ丈(せい)の揃った(略)美人揃いが八人お附き申していられる。(略)供廻りの男綺麗なのが選ばれて、なにもかにも美しい。(略)

一時誰も無言
御駕籠を開き、(略)御立出(おたちいで)になった時に、御装束といい、御髪(おぐし)といい、美麗はこの上ない錦絵を見る如くでしたが、お顔見て愕(おどろ)ました。(略)
美人どころではない。唇の薄い、額に皺(しわ)の寄った、おでこで、なんともハヤ二目(ふため)と拝見の出来ない御顔・・・何だか嘘のような、狐につままれたような、誰も余りの事に一同顔を見合わせ無言(だんまり)でした。(略)

実は女中の替玉
(略)九日目に御離縁とおなり遊ばしました。御姫様は人三化七(ひとさんばけしち)でいらせられたそうで。・・・お見合いもあったそうですが、おこいという女中見合いの節 替玉になったそうで。・・・アノくらい魂消(たまげ)たことはありませんでした。

見合い相手美人姫は替玉

大名家出入の江戸城表坊主が「縁談相手方の情報収集」

『鳶魚江戸文庫25お大名の話・武家の婚姻』三田村鳶魚
 一部抜粋 ()は筆者(私)による
武士の方に致しますと、男女の見合いなどということは、天保の末頃(※~1844年 12代将軍家慶)までありません。主君や親の命令によって結婚するものである以上、相手がどんな顔をしているか、どんな気持ちかということは双方とも知らないのです。(略)

それですから、妻女を迎えます前には、双方で陰聞きうことが行われた。君名の場合はそんなこともありませんが、(略)お大名衆などになりますと、娘が外へ出ることないから、出入坊主という者がある。

これは御城坊主(※)で、登城した場合にいろいろ世話を焼くので、お大名衆をよく知っている。なかなか如才ない連中で、お屋敷へも出入するから、出入坊主というのですが、これらに相当な金をやって、奥向きの話を聞き出させる。すなわち、上手に陰聞きをさせる。親達がこれでよかろうということになって、先方にも交渉し、自分の子供にも話をする、というわけでありました。
※)御城坊主(表坊主) 
表坊主は江戸城内で大名の給仕をする役で300余人もいたというから、何阿弥は何藩と何藩の専属(?)といった関係が成立する。20俵二人扶持であるが、大名からの付届けがある。中には付届けが悪かったので、坊主に意地悪されてお大名が泣面をかく場面もあったという。   
『江戸巷談 藤岡屋ばなし続集』「大名のお弁当箱」鈴木棠三 ちくま学芸文庫 2003年

拙著『好奇心まち歩きすみだ歴史散歩』鉱脈社

見合わせぬからの替玉
[※井原西鶴『本朝桜陰比事』の中には、美しい方の姉を約束しておいて、醜い方の妹をくれた話が書いてある。これなども直接顔を見たのではない。評判だけの話だから、そういう替玉が出来たので、それが縺(もつ)れて訴訟になった話なのです。

黒羽藩婿養子藩主の妻離縁に重臣が隠退迫り座敷牢に監禁

『黒羽町誌』黒羽町誌編さん委員会 黒羽町
 一部抜粋 [](※)は筆者(私)による一部抜粋 
[下野(しもつけ 栃木県)黒羽(くろばね)藩大関家1万8千石]
[丹波(兵庫県)篠山(ささやま)藩青山家6万石]
▼ 黒羽藩上屋敷跡の旧「錬成中学校」の「アーツ千代田 3331(3331 Arts Chiyoda)」※今年3月閉鎖予定(千代田区外神田6丁目)


黒羽藩主大関増昭(ますあき)が多病のため、安政2年1855 13代家定)8月死去したので極秘にし、妹於鉱(おこう※17歳)を養女として急聟(むこ)養子篠山藩青山忠良五男(りゅう)之助(※17歳)を迎える内談が重臣の間で進められていた。

(略)(りゅう)之助は安政3年(1856)2月増昭養嗣子(※増徳<ますよし>と称す)となり、同年4月家督を継ぎ、7月9日初めて封に就いた。(略)

藩主増徳は、萬延元年1860 14代家茂)8月に妻於鉱離縁した。(むこ)養子でありながらこの挙に出たので、藩士隠退運動を起こした。再三隠退を願ったが承諾しなかったので、文久元年(1861)1月18日に、重臣は座敷牢を設けて監禁した。

ここに於いて、重臣は於鉱に配するに、遠州横須賀藩西尾隠岐守忠善の世子山城守忠宝の末男藤十郎増徳養嗣子(※増裕<ますひろ>と称す)とし、文久元年10月9日に家督を継がせた。於鉱は、増裕内縁の妻として、「奥方様」とは呼ばれず「於待様」と呼ばれた。

これも、藩として止むを得ず取った措置である。浄法寺高譜「勤方手手控」には「御血統絶候義者一統歎敷ニ奉存候」とあり、血統保持の為公儀にも親類にも相談せず内々に取計った

黒羽藩婿養子藩主が妻を離縁し隠退迫られ座敷牢に監禁
黒羽藩婿養子藩主が妻を離縁し隠退迫られ座敷牢に監禁

『新編物語藩史第2巻』「黒羽藩」監修児玉幸多・北島正元 新人物往来
黒羽藩年表
安政2年(1855)藩主増昭(ますあき)急逝                         安政3(1856)増徳(ますよし)、家督を継ぐ。講・無尽・家中高利貸・国産政策に反対する百姓一揆が発生。給人徒党事件起こる。
文久元年(1861)増徳、座敷牢に監禁される。増裕(ますひろ)、養子となり家督を継ぐ。

百姓一揆と給人徒党
ようやく百姓一揆を鎮圧した藩内では、藩主増徳(ますよし)が、その妻お鉱原文ママとの不和に端を発し、次第に重臣層との対立を深め、文久元年(1861)4月には、実力をもって退位を強要する事態となり、(以下略)

【余談】「篠山藩中屋敷」から出土した「大関増徳の胞衣容器」
港区立郷土資料館hpによると、篠山藩青山家中屋敷跡(青山中学校)から石製の胞衣(えな)桶の外容器の蓋が出土、青山中学校が保管し現在は同館が保管している。

天保10年(1839)・同11年・弘化4年(1847)に生まれた13代藩主忠良の子ども胞衣容器であり、天保10年誕生の五男は、下野黒羽藩大関増昭の養子に入り、十四代藩主となった増徳(ますよし)で、これらは胞衣桶の外容器の蓋であったと推定されている。
「個人名のわかる大名家の胞衣容器の出土例は少なく、石製の外容器も例を見ないことから、大名家の習俗の歴史を知るうえで貴重」とのこと(※)。
 ※筆者(私)注
  胞衣容器
 新生児の成長と出世を祈願して胎盤をおさめた容器を土中に埋める習俗があった
  リンク https://www.minato-rekishi.com/museum/2009/10/41.html

                   



  

 

 

 

 

 



  




  

    

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