3月13日再放送のNHKテレビ「日本人のおなまえ▽地方出身者のギモン!東京のおなまえ2歌舞伎町」は「歌舞伎劇場がないのになぜ歌舞伎町?」というもので、歌舞伎町の元の町名「角筈」の由来についても紹介していた。
学生時代、新宿厚生年金会館の近くに住む私にとって、歌舞伎町は新宿駅への通り道のひとつであり、社会人になると呑んで明かした不夜城だった。そして土地の履歴を辿る「好奇心散歩考古学」の仕事をするようになると、この馴染み深い「歌舞伎町」の話は格好の題材となった。
私は『土木施工』(山海堂)連載「なぞのスポット東京不思議発見」に「歌舞伎町の『歌舞伎』とは? 道義的繁華街を目指して戦後に誕生した歌舞伎町の幻の歌舞伎劇場建設計画」を掲載。これを大幅に加筆して単行本『なぞのスポット東京不思議発見』に収録した。そんな拙著で「歌舞伎町の地名の由来になった幻の歌舞伎劇場」を説明する。
また、戦前には新宿3丁目に「新歌舞伎座」があったが、この話も連載「なぞのスポット東京不思議発見」に「京王線始発新宿追分駅跡と新歌舞伎座の跡が物語る新宿発展史」と題して掲載している。
そこで、この「二つの歌舞伎劇場の記事」と執筆資料を時代順に紹介。「新宿歌舞伎町」の旧町名「角筈」の由来についても、史料と拙著『東京不思議発見』で説明する。
※記事中の施設名と写真は取材当時
戦前の新宿3丁目にあった「新歌舞伎座」とは
『土木施工』山海堂・平成17年(2003)8月号「なぞのスポット東京不思議発見」


「新歌舞伎座」の変遷 歌舞伎から映画館、そして再び演芸場に
昭和7年(1932)に開館した松竹の「新歌舞伎座」は、その後映画館になり、さらに演芸場になっている。「新宿の土地柄に歌舞伎があわなかった」からとされており、目まぐるしいその変遷を辿ってみよう。
『キネマの楽しみ~新宿武蔵野館の黄金時代』新宿歴史博物館 平成4年(1992)
※は筆者(私) 年月の漢数字は洋数字にした 本文太字化は一部筆者(私)による
◆新歌舞伎座
→新宿第一劇場(昭和9年9月改称)※1934年
→新宿松竹座(昭和18年改称)※1943年
→新宿第一劇場(昭和19年改称)※1944年
開館 昭和4年9月7日 ※1923年
住所 角筈1ー1 ※現・新宿3-31
定員 1048~1572人
系統 当初中堅歌舞伎などを上演、
昭和6年※1931年5月31日から9月27日まで新宿松竹館改装工事のため松竹映画を上映、
昭和7年7月から青年歌舞伎も上映、※上演か?
昭和9年※1934年改称後は松竹系映画と松竹少女歌劇※SSDなどの実演、
昭和13年※1938年7月1日から新興キネマ封切、
昭和15年11月から松竹新興映画、
昭和17年※1942年4月から紅系一番館
昭和18年1月31日から再び演芸場に
所有・経営 松竹 甲州街道の近くに、松竹が山の手随一の大劇場を建設し、新歌舞伎座として吉右衛門、三津五郎、時蔵、我当(仁左衛門)、蓑助などの歌舞伎で華々しく幕を開けた。座名の通り歌舞伎を上演するほか、新国劇や曾我廼家五郎一座、新派なども上演した。
昭和9年※1934年に松竹少女歌劇の本拠となったので、新宿第一劇場と名を変えてSKDを上演、エノケン一座や松竹家庭劇、青年歌舞伎などを上演した。新宿の土地柄に歌舞伎が合わないと見切りをつけたためである。立地も商店街から奥まったカフェー街の奥の、炭屋の倉庫街にあったため良くなかった。
閉館後は三越駐車場になっていたが、平成3年※1991年ここに三越南館が開店した。
「歌舞伎町」町名の由来になった幻の「新宿歌舞伎劇場菊座」
『なぞのスポット東京不思議発見』山海堂 平成17年(2003)9月








歌舞伎町の計画者鈴木喜兵衛の想いと歌舞伎町命名者石川栄耀の自負
「歌舞伎町」建設の出願・施工者である鈴木喜兵衛が記した『歌舞伎町』の序文において、命名者の石川栄耀は鈴木が目指した「新興文化地域歌舞伎町」建設への想いと命名者としての光栄を綴っている。
『歌舞伎町』鈴木喜兵衛(歌舞伎町879番地)昭和30年(1955)
一部抜粋 原文に句読点はない 改行の一行空きは筆者(わたし)による
序 東京都都市計画課長石川栄耀
とまれ歌舞伎町は 全く ある可きすがたと成った
丁度 新装の巨船がゆったりと春の潮に浮かんだ形である
船長 鈴木喜兵衛氏(とこゝで出願者 施行者の名を本名にきりかえよう)の満足憶うべきである 氏はNHKの座談会の時「今新宿には何か新しいスガタのものが生まれつゝある様です それは何か暖かな新宿と云うのではなく 山の手全体の家庭中心としての上品で健康な娯楽中心地が出来つゝある様です」
それが歌舞伎町であると言われ度いのであろう 正にその形にはなりつゝある
モシ 歌舞伎町がソウなったとするなら それは疑いもなく全首都の中心となる事である
何となれば 戦後新宿こそは 全首都のホームセンターならんとしたものであるが それは一時その発展過程で資格を喪失したかに見えた(コワイ新宿と云われた)
世人はその資格を「こゝ」に見つけ得る事になるからである
少なくも全首都復興の月桂冠をこの町の空にかざる可きであろう
× × ×
最後に
歌舞伎町と云う名は筆者の命名である(地球座の名も)
此の町が首都の中心として光をまし色を鮮かにして行くにつれ「命名者の光栄」と云う
サヽヤカな自負を維持して行き度いと思うのである
許され度い
歌舞伎町の旧町名「角筈」の由来は諸説あり
NHKテレビ「日本人のおなまえ▽歌舞伎町」では、「角筈」の地名について、渡辺与兵衛という侍がいて、その髪型が「角」のようだったことに由来すると紹介していた。
この「角筈」の地名の由来については諸説あり、『淀橋誌稿』は渡辺与兵衛髪型説を含む数説を次のように記している。
『淀橋誌稿』加藤盛慶 武蔵郷土史科学会 昭和6年(1931)
()内の西暦表記と略、改行と文中太字化、(※)は筆者(私)による
本文中に登場する熊野十二所権現「熊野神社」は新宿の総鎮守(新宿区西新宿4丁目)
地名の起因 角筈と角髪
角筈の地名の始めて書契に見えたるは、天正十五年(1587年 関白豊臣秀吉)七月晦日附、小田原北條氏の文書に柏木角筈小代官と載せたる(略)、 元来角筈の名に就いては数説あり曰く、十二所熊野権現の宮守なる修験者の異名にて、筈形(※ 矢の端の、弓の弦につがえる切り込みのある部分)に角を生したる髪の結方より其の名起こると、
舘林叢談 優婆夷優婆塞
岡谷繁實の著『舘林叢談』によれば、秋元子爵家所蔵の旧記に天文(足利時代 1532年~)、永禄(~1570年)の頃熊野の乱に際し、其の社人神寶の一物を携へて武蔵に遁れ、熊野の社を創む十二所権現即ち是なり、
村の旧家にて渡邊輿兵衛の髪の束ね方異様にて、恰も角の如く見ゆるを以て、里人等同人来るときは「角髪」来ると称したるよし其の後髪を筈に改めたるにや云々とあり。
されど紀伊国熊野本宮の社人には渡邊氏を称するものなしとぞ、又渡邊家に伝ふる説は是と異なり、角筈なる語は大和詞にして、即ち仏者の「優婆夷優婆塞」(出家せずして仏道を修業する女、同男)のこと也。同家の祖先はもと真言宗の信者にて、優婆夷優婆塞なりしを以て角筈に名称を生じたるなりと謂へり。
山伏と角筈
『古書』に曰く、古(いにしえ)へ山伏(山野にして起臥 ※生活すること)をなす僧侶、又修験者)を角筈と云へりと也、十二社権現の宮守が山伏にてありしか。
「十二所熊野神社」二つの建立説 角筈名主渡邊家先祖「輿兵衛」と中野長者「鈴木九郎」
新宿十二社熊野神社の創建については、『淀橋誌稿』舘林叢談の項に記された「渡辺輿兵衛」を建立者とする説。ほかにも「中野長者鈴木九郎」を建立者とする説がある。
私は『なぞのスポット東京不思議発見』(山海堂)の「都庁裏の坂の窪地は池の跡だった!」の中で、「中野長者建立説」と「渡辺与兵衛建立説」を紹介しているので、その部分を抜粋する。

『なぞのスポット東京不思議発見』山海堂 平成17年(2003)9月
都庁裏の窪地は、池の跡だった!
新宿十二社天然温泉裏手にある坂道の窪地は十二社の池の跡。 中野長者伝説と淀橋浄水場の歴史で綴る、熊野神社と十二社池の物語。
熊野神社の「中野長者建立説」
江戸時代まで熊野十二所権現社(十二社)と称された新宿の熊野神社※は、室町時代の応永年間(1394~1428)に、新宿・中野一帯を開拓して「中野長者」と称された鈴木九郎が、熊野三山の十二社すべての神を勧請したのが始まりとされている。 ※十二社と書いて「社」をソウと読むのは、十二所の所(ショ)が転訛したもの。
鈴木九郎の先祖は、紀州藤代で熊野三山の祠官を務め、源氏の恩顧を受けていた。その鈴木重倫の子重家は、源義経の軍に参加したため、義経敗北後、その子孫は奥州平泉から東国各地を放浪している。
そして、鈴木九郎の代になって、中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになり、この地域の開拓につとめ若一王子宮を祀った。やがて九郎は「中野長者」と呼ばれるまでになり、室町時代の応永10年(1403)に、熊野三山の十二所権現のすべてを勧請したという。この建立説は江戸時代享保19年(1734年 9代将軍吉宗)に書かれた「多宝山成願寺縁起」に出てくるのだが、これには異説がある。
熊野神社の「名主家先祖建立説」
江戸時代に角筈の名主で、明治時代に戸長を務めた渡辺家の先祖渡辺与兵衛が、室町時代の天文・永禄(1532~1570)の頃、紀州熊野の乱があった時に、神宝の一物を携えて紀州を去ってこの地に住みつき、開拓して熊野神社を建立したというのだ。
渡辺家は熊野神社の北側、西新宿5丁目8番地の一角に屋敷を構えていた。与兵衛ないし伝右エ門を称し、江戸時代の初期から代々角筈村の名主を世襲し、明治になってからも戸長を務めており、後に戸塚に移っている。
