慶応4年(1868)の彰義隊と新政府官軍(朝廷軍)による「上野戦争」。その戦場となった上野寛永寺は「徳川幕府の江戸城の出城的機能」」を有し、「対朝廷の盾としての役割」を担っていた。
そんな彰義隊の戦死者の遺骨を明治政府をはばかり、密かに埋葬し秘匿しづけたのが、徳川家康創建の「松平西福寺」だ。
また西福寺は江戸時代に、「菓子屋の官位を販売する公家の中御門家」が「江戸出張所」として活用した場所でもあった。
そんな「寛永寺の出城的機能」について、『国づくりと研修』連載「散歩考古学 大江戸インフラ川柳」で、「西福寺の彰義隊の墓」については、『土木施工』連載『なぞのスポット東京不思議発見』の記事でそれぞれ紹介する。また「公家中御門家の菓子屋官位販売の江戸出張所 西福寺」を書下ろし記事で説明する。
また当ブログの予告編的【YouTubeショート動画松本こーせい】に「公家の菓子屋官位販売と彰義隊の墓の西福寺#shorts」をアップしたのでリンクする。
[参考文献]
『松平西福寺』松平西福寺
『新訂江戸名所図会5』市古夏生・鈴木健一校訂 ちくま学芸文庫 1997年(平成9)筑摩書房
『東京市史稿 宗教篇第三』「松平西福寺」東京市役所 昭和15年(1940)
『台東区史社会文化編』「蔵前西福寺の彰義隊の墓」「彰義隊の結束」「上野の戦いとその後」台東区役所 昭和41年(1966)
『台東区史沿革編』「蔵前西福寺墓」台東区役所 昭和41年(1966)
『台東区史通史編Ⅱ』「彰義隊」「明治政府の出版統制ー彰義隊の場合ー」台東区役所 平成12年(2000)
『東京百年史第一巻』「戊辰戦争と彰義隊」東京百年史編集委員会 東京都 昭和54年(1979)
『寛永寺』東叡山寛永寺発行 寛永寺教化部編集 1993年(平成5年)
『江戸と東京』「上野公園古蹟巡り」第3巻(1月)第1号 昭和12年(1937)
『吉村昭氏追悼 彰義隊とあらかわの幕末』荒川区教育委員会 荒川ふるさと文化館 平成19年(2007)1月
「江戸城の出城で対朝廷への盾」機能有した「寛永寺」での「上野戦争」
『国づくりと研修114号』「散歩考古学 大江戸インフラ川柳8」全国建設研修センター 平成21年(2009)4月
増上寺が埋葬拒否の「彰義隊戦死者を密葬秘匿」した松平西福寺
『土木施工』「なぞのスポット東京不思議発見35」2004年(平成18)山海堂
徳川家康が三河に建立し江戸に移した「松平西福寺」とは
「なぞのスポット東京不思議発見」の取材で同寺を訪問した際に、成田洋志さんに頂いた「松平西福寺」と『江戸名所図会』「東光山西福寺」の記事を一部抜粋要約して紹介する。
(※)は筆者(私)による注
『東光山松平西福寺』
松平西福寺は天正二年(1574)徳川家康が静岡市に創建して大樹寺の了伝和尚を招いて開いた寺院である。今川義元の人質だった十九歳の家康は、桶狭間の戦いで義元が織田信長に滅ぼされた時、菩提寺の大樹寺に逃れ墓前で切腹しようとした。この時に大樹寺の登誉上人と了伝和尚に戒められ自害を留めたといわれている。
以後、了伝和尚は家康にお付きして信頼関係を高め、家康は西福寺を建立して了伝を上人に迎えた。当時の西福寺は三百石を与えられ、大名待遇をうけていたとされる。
のちに家康の命を受けた二代将軍秀忠が慶長十三年(1608)江戸駿河台(現・千代田区)に松平西福寺を創建、寛永十五年に現在地(台東区蔵前)に移転した。当時の境内地は約七千坪あり、末寺として七ケ寺の別院、別寺と学寮(僧侶を育成する為の学問所)などがあった
『江戸名所図会』「西福寺」
良雲院と号す(良雲院殿〔武田信玄の女、竹姫〕、御尊骸を当寺に葬し奉るゆえに院号とす。当寺に御墓所あり)。江戸浄宗の隨一にして、開山を真蓮社貞誉(※『松平西福寺』は「登誉」)了伝上人と号す。遠州犀が淵戦死の迷魂得脱(※迷って浮かばれない亡者の魂がこの世の苦悩から脱すること)の功(※御利益)は武夫(※武人)の戦功に等しければ、その功を永世に伝へよ」と、神祖〔徳川家康〕松平の御称号ならびに山号等をたまう。往古三州(※三河 愛知県の東半分)にありしを、慶長(一五九六-一六一五)の頃、台命(※将軍の命令)によって当国(※江戸)駿河台(※千代田区神田駿河台)に移され、また寛永十五年(一六三八)いまのところ(※台東区蔵前)にて地をたまふ。
「菓子屋の官名・称号」許可の特権を持つ「中御門家」の江戸出張販売
「中御門家」は役人を西福寺に出張させ「菓子屋の官位・称号を販売」
田村栄太郎『江戸時代の町人の生活』によると「菓子屋の官位」とは次のようなものだった。
一部抜粋要約 ※ (※)は筆者(私)による注記
江戸時代、菓子屋のなかには何々大掾、何々軒、何々堂といった屋号を付ける店があった。これらの屋号を名乗るには、大掾・軒・堂の称号(官名)を与える特権を幕府から与えられていた中御門家の許可が必要だった。幕府の役人が何々の守の空官※を朝廷に申請すると同じようなものだ。
「製菓子屋でとくに製菓技術がすぐれているから、中御門家にみとめてもらい、大掾の官位をえたとい うわけでの大掾・軒・堂ではない。逆に中御門家が菓子屋に空官を押売りするのである。貧乏公家のアルバイトである」
※幕府の役人・武家の官位 武家の官位の「守」は、「国司の長官」を「かみ」と読んだのを表記したもの。室町幕府の守護職設置で実態を失い、乱世の戦国時代に消滅。単なる名目的な空官と化した。江戸幕府は「武家の官位は公家の官位とは別物」と規定、3000石以上の武家は希望する官位を幕府に申請し許可を得て官位を名乗った。官位には守・督・太夫・大輔(たいふ・だいぶ)・将監・主殿頭・主計頭 などがあった。
ちなみに、掾の称号には大掾・掾・少掾の三階級があり、国名とともに与えられた官は正七位下なので、大掾の屋号を名乗る菓子屋は正七位下の官吏に相当。大掾山城といったように国名を付けた称号を名乗った。
西福寺を出張所にした中御門家の「江戸での菓子屋官位販売方法」
中御門家は役人を一年置きに江戸に派遣、松平西福寺に出張させた。彼らは江戸市中で大掾・軒・号をつけていない菓子屋を探し出し、店の地主・家主に差紙(召喚状)を渡して菓子屋を呼び出した。
そして官位「掾」の最高階級である「大掾」の官名を授かるように勧誘し、国名は菓子屋の希望する国名を授けた。但し、将軍御三家の所在国名の武蔵・紀伊・尾張・常陸の国名は対象外だった。そして国名によって義納金(値段)が異なった。山城・大和・河内・摂津の大掾は金七両二分だが、藤原何々なら十両だった。
「菓子屋が三両の官位の堂を希望すると、出張員が七両二分の山城・大和・河内・摂津の大掾をすすめ るので帰ろうとすると、仕方なく菓子屋の希望した三両の「堂」を売るということもあったという」
喜田川守貞『守貞謾稿』が記す「江戸の菓子屋の官位」
江戸後期から幕末期の風俗を記した喜田川守貞の『守貞謾稿』は、「江戸の菓子屋の官位」について、次のように記している。
「江戸菓子店 昔は大掾 藤原某等受領を先途とし 受領の店は売るも多かりしが 近世粗製 多きをもって 近来開店のものは受領を専らとせず 某堂某亭某国など、風流の号を用い」(後略)
喜田川季荘 編『守貞謾稿』巻5,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2592394 (参照 2024-02-19)