宇江佐真理「名もなき日々を」茜の別式女とは?「武芸奥女中流行」は綱吉賞美の「お松殿」から

別式女(武芸奥女中) 武芸奥女中

宇江佐真理の小説『髪結い伊三次捕物余話』「名もなき日々を」不破茜(不破刑部ぎょうぶを名乗る)は、八町堀同心の娘で、蝦夷地松前藩(福山藩・館藩)の江戸上屋敷に奉公する奥女中だが、武芸たしなむ「別式べつしき」で、若衆まげ(※元服前の男子が結った髪形)にかみしもをつけている 。
 宇江佐真理『髪結い伊三次捕物余話』「名もなき日々を」文春文庫 文芸春秋社 2016年  

同書の表紙カバーには、「八丁堀同心・不破友之進の娘・は、奉公先松前藩の若君から好意を持たれたことで、藩の権力抗争に巻き込まれていく」とあり、本文には「茜は藩主の子女の警護をする別式女として奉公に上がったが、近頃は良昌の傍につき添うのがもっぱらの仕事だった」とある。

そこで初めに、この小説に描かれた松前藩の時代設定上屋敷の場所を紹介しよう。墨田区亀沢に仕事場を置き、江戸東京散歩の取材をしていた私にとって、馴染み深い場所である。

そしてそのあとに、五代将軍綱吉が賞美した「郡上藩お松殿とその武芸奥女中と、それを契機に武芸奥女中が他の藩に広まった経緯を説明をする。
また、この話の簡単なあらすじをYouTubeショート動画松本こーせい「松前藩茜の武芸奥女中とその流行#shorts」と題してアップしたのでリンクする。

YouTubeショート松本こーせい 松前藩茜の武芸奥女中とその流行#shorts

「名もなき日々を」の時代設定と松前藩江戸上屋敷

時代設定
不破茜は藩主の子女の警護をする別式女べつしきめとして奉公に上がったが、近頃は良昌の傍につき添うのがもっぱらの仕事だった。良昌は英明な若者だが、いかんせん病弱だった。ために次期藩主に就くことも危ぶまれている。
 
良昌のモデル10代藩主松前良広の嫡男の昌広で、天保10(1839)年15歳で藩主となる。

『松前町史 通史編第一巻下』松前町史編集室 松前町 1988年
天保4(1833)年~
・9代藩主章広没後良広治世から昌広初頭にかけて(略)、この間一貫して家老職にあったのは4名で、(略)なかでも藩政に大きな影響力を与えていたのが、松前在国松前内蔵くら広当ひろまさ江戸藩邸詰蠣崎民部広晁(天保10年以降に民部からに改称か)であった。

9代藩主藩主章広没後の良広治世から昌広初頭までの約9年間幼少藩主が相次いだうえ、藩主松前にいなかったため、(略)藩主権力の著しい弱体化を招き、その結果、藩政の実権章広の弟である松前内蔵くら広当ひろまさや章広治世から江戸藩邸にあって藩政に大きな発言力を有していた蠣崎民部主水広晁の二家老に握られるに至った。重臣のうち十中七、八までは松前内蔵派の家臣であってみれば、松前における藩政に関する限りでは、まさに松前内蔵の独断であったといっていい。 

上屋敷
【下谷・新寺町にある蝦夷松前藩上屋敷奉公している不破茜は・・・】

上屋敷(浅草新寺町) 2000坪余

「江戸図正方鑑」元禄6年(1693)

台東区小島2丁目18番地
左は台東デザイナーズビレッジ<小島小学校跡> その右の北隣一帯が松前藩上屋敷跡

松前藩上屋敷跡
撮影 2010年

京下り増える中で武芸自慢の女中求めた「大名家の剛毅な奥方」

4代将軍家綱の頃から大名家の剛毅な奥方が武芸自慢の女中を召し抱え           『鳶魚江戸文庫11武家の生活』三田村鳶魚著 朝倉治彦編 中公文庫 中央公論社 1997年(平成9)
※一部抜粋要約 (※)は筆者(私)

京下り一の反発
女別式おんなべつしきといって武芸のたしなみのある女中を、諸大名の奥向きで召し仕われる家々が、(※5代将軍綱吉の)天和てんな(※1681年~)・貞享じょうきょう(※~1688年)には、20有余もあった。

『大東婦女貞烈記』(※)『近世烈女伝』(※)『婦女武勇集』等によって伝えられる、諸大名の奥方の豪傑ぶりも驚くべきもので、強い奥方の傍に、柔弱な釣り合いもせず、お気に入りますまい。
※『大東婦女貞烈記』松平鸞岳公子著 福井久蔵編 厚生閣秘籍大名文庫 昭和12年(1937)         ※『近世烈女伝』夢想兵衛 登美屋書店 大正14年(1925)

この武張った奥方は、(※4代将軍家綱の)万治(※1658年~)・寛文(※1661年~)の頃から目立ってきた。眉を掃って白粉の気のない身長みたけの着物両刀を差させて、武芸自慢の女中を召し使った。

(※3代将軍家光の)寛永度(※1624年~)から、武門武家の奥向きへ、京下りが多くなり、御簾中ごれんちゅう様(※将軍・三家・三卿の妻の敬称)にも、奥方にも、公家の女性が殖えるばかり、御側には随従して来た者が万事を取り仕切ります。
諸大名の正妻のみか、御国御前おくにごぜんと申した第二夫人以下、主だった女中も、下りが多くなってまいりました。

諸大名の奥方の武勇談も、(※8代将軍吉宗の)享保(※1716~36年)で打ち切りになっている(略)

「武芸奥女中流行の立役者」綱吉側室お伝の方の妹「お松殿」

「お伝の方」が将軍綱吉の世子産んで「姉妹も取り立て」
「お伝の方の出身」ほか『鳶魚江戸文庫11武家の生活』三田村鳶魚著 朝倉治彦編 中公文庫 中央公論社 1997年(平成9)
※一部抜粋要約 ※文体改め一部抜粋 見出しと(※)<>は筆者(私)

お伝
お伝は4代将軍家綱の世子綱吉館林藩25万石藩主)の女中だったが、家老牧野成貞の推薦で綱吉の母桂昌院の侍女となり、寛文10年(1670)4代将軍家綱の世子綱吉館林藩25万石藩主)の側室となる。綱吉は延宝8年(1680)5代将軍となるが、実子はお伝の方が生んだ鶴姫(のちに紀伊藩主徳川綱教の正室)と徳松(早世)の二人だけだった。

の小屋権兵衛は幕府目付支配の黒鍬之者くろくわのもの(※)だったが、娘(お伝)が将軍世子を生んだため、大老の堀田正俊が苗字を与え堀田将監しょうげん正元を名乗った。                      ※黒鍬之者は戦時の土木技術者で陣営設置や武器輸送、戦死者の埋葬に従事。平時には江戸城中の掃除や将軍外出時の道具輸送などをした。12俵一人扶持。

お初
お伝の姉(長女)お初は婿養子と死別後、徒歩で戦う御徒組の頭(※150俵取り)と再婚するが死別。将軍綱吉の思し召しで側用人牧野成貞(※下総<千葉県>関宿藩主)の養女となり、美濃<岐阜県>大垣藩主の弟、戸田氏成うじしげ(のちに大垣藩支藩の大垣新田藩を立藩)と再々婚した。

お松
お伝の妹(三女)お松も牧野成貞の養女となり、常陸<茨城県>下館藩の家老の三男白洲才兵衛と結婚した。お松の牧野成貞の養女となり、出羽<秋田県>本庄藩主六郷政晴の奥方になった。

お松の息子、竹之助は12歳で美濃〈岐阜県〉郡上ぐじょう藩主になった。藩主の遠藤家が無嗣廃絶となったため、綱吉竹之助を跡目にせよと沙汰、竹之助は伯母(※父母の姉)を妻とする戸田氏成の養子となり、1万石加増され2万石になった郡上藩の藩主遠藤胤親たねちかとなる。

「郡上藩お松殿と奥女中の武士姿」が江戸で評判に

「異風を競う別式女」『鳶魚江戸文庫10公方様の話』三田村鳶魚著 朝倉治彦編 中公文庫 中央公論社 1997年(平成9)
※原文のままで一部抜粋 見出しと(※)は筆者(私)

大名女お松殿と奥女中の武士姿が江戸で評判に
お松は大名(※郡上藩主遠藤胤親たねちか)のお袋という心入れからか、林大学頭(※儒学者)について学問を始め、武芸たしなんだ。家中の侍はいうまでもなく、側で召し仕える女中にも、剣術の稽古をさせる。

お松自身は下げ髪に掻取かいどり(※肩に掛けて着用する鎧「挂甲けいこう」)を着て、大脇差をさし、子小姓に持たせ側女中に麻上下あさがみしも(※麻でつくった裃で武士の礼服)を着せ、大小を帯させる

正月11日の具足ぐそくの祝儀(※甲冑かっちゅう開きに備えた具足餅を食べる行事)には、女中に鎧を着せる。9月9日の神功じんぐう皇后御凱陣の日※には、女中に甲冑を鎧わせ、祝宴を執り行うのを例とした。弱々しくては、男子を育てられぬとあって、一切が男の行儀であった。
※神功皇后御凱陣の日 仲哀天皇と神功皇后は熊襲討伐で九州に遠征、仲哀天皇が急死した。皇后は熊襲を討伐後、新羅に遠征、帰国後応神天皇を出産したとされる説話。神武東征神話のモデルではともいわれる。

お松殿のゆき方は、江戸中の評判になって、大名女渾名あだなを付け、知らない者のないほどになった。

「郡上藩主母お松殿」を綱吉賞美し「大名家に武芸奥女中」流行

江戸城で綱吉に拝謁「神妙な心掛け頼もしき所存」と賞美

5代将軍綱吉の「武芸奥女中賞美」

「異風を競う別式女」『鳶魚江戸文庫10公方様の話』三田村鳶魚著 朝倉治彦編 中公文庫 中央公論社 1997年(平成9)
※原文のままで一部抜粋 見出しと(※)は筆者(私)

お松殿の風聞が柳営にも伝わり、綱吉はお召しになった。
お松殿は身の本望だというので、掻取かいどり下げ髪両刀という例のこしらえで、帯刀した女中両人を従え、御広敷(※大奥の警備役所)へ上がった。
綱吉は風聞通りのまま登城するとは心広い女である、とお褒めになった。(略)綱吉は重ねての上意に、武家の婦女としてさようの風俗はもっともなることだが、自然の時、我が用にも立つべき所存であるか、とお尋ねなされた。

そこが怜悧れいり(※利発)なお伝の方の妹だ。これは御諚ごじょう(※貴人・主君の御命令。仰せ。御言葉)とも存ぜず、何として女子風情が上の御用に相立ちましょう。(略)

さりながら、女の身にも一屋敷の主(※大名家の主)になしおかせらるる御恩のありがたさに、一分いちぶん(※一身の名誉、対面、誇り)の忠義を心得たく、もし火難などの折柄、御台様(※将軍の正室)へかし付き奉り、お側を離れずまかりあり、私相応の御用を相勤めたき所存、それゆえ、武芸を少々心掛けおりまする、家中の者、私召仕めしつかい女など、武芸はいらぬことのように候えど、それにて侍どもも寝る、と言上した。

この答申は、大変に綱吉将軍を喜ばせた。(略)神妙な心掛け頼母しき所存、と上々の首尾でお松殿は帰邸した。

男子禁制の警備役として武芸奥女中が大名家に広がる
武士の家に生まれるからは、女でもこうありたい、妻娘の側近く召し仕う女どもも、その器量次第双方を許して、奥向きの用心にしてよろしかろう。

どもは急な変事にも(※男子禁制の)奥向きへ駆け付けられぬ定めでもあるから、諸大名も、お松殿が御賞美を蒙ったので、にわかに帯刀女中を置かれた。これが当時の大名の間の流行らしくもみられる。

お松殿の趣向は、(略)俄か大名で嬉しくなり過ぎた結果ではない。新しい大名は、世間から軽く見られてはならぬ。その防御には、人心を制圧する必要がある。由緒の浪人を抱えたり、評判のよい儒者を家来にしたりする。俄か大名の心理は、お松殿によって巧妙に発露された。

武士さえ算筆(※勘定と読み書き)が何より大切になった時代に、男から忘れそうになった武芸を、今更のように女わざの太刀・薙刀なぎな、(略)諸大名がその真似をするのは変なものである。

女別式・剣帯女…武家で名称異なる武芸奥女中

「お伝の方の出身」ほか『鳶魚江戸文庫11武家の生活』三田村鳶魚著 朝倉治彦編 中公文庫 中央公論社 1997年(平成9)
「大名家で異なる帯刀女中の名称」を要約して列挙 

帯刀女中は大名家によって名称が異なり、女別式とも刀腰婦とうようふとも書いてある。
刀腰婦とうようふ 尾張藩5人 内藤主殿頭とのものかみ1人 松平出雲守3人 阿部対馬守2人
別式女べつしきめ 紀伊藩4人  女別式おんなべつしき 水戸藩3人 
別式 松平越後守2人 加賀藩4人 松平相模守5人 松平陸奥守10人 松平伊予守3人 本多中務大輔なかつかさたいふ3人 
刀婦 薩摩藩4人 細川越中守4人  刀婦女 松平大膳大夫3人 黒田筑前守2人         勇婦 鍋島藩3人  刀持女 榊原式部大輔3人   剣帯女けんたいおんな 酒井雅楽頭うたのかみ2人


 







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