土地の記憶から時代の歴史に立ち至る私の「散歩考古学」の「土地の履歴」の一例として、東京大学本郷キャンパスの裏手にある「弥生式土器発掘跡」に、明治の士族の反乱「西南戦争」に備えて「警視局(現在の警視庁)の射的場(小銃射撃訓練場)」が急遽開設された経緯を紹介する。この地には「弥生美術館」と「竹久美術館」があり、美術ファンには馴染みの場所だ。
私はこの話を山海堂『土木施工』連載の「なぞのスポット東京不思議発見」に掲載しており、その記事をベースに、ブログでは西南戦争で警視局に鎮圧され自刃した西郷隆盛自身が、「明治の近代警察制度創設の尽力者」の一人だったことを記載。そんな西郷がじつはロシアに亡命していて、ロシア皇太子ニコライが来日する際に、同行帰国するとの噂があり、それが志賀県警巡査津田三蔵によるニコライ暗殺未遂「大津事件」の動機だったことも紹介する。
このブログの予告編的「YouTubeショート動画松本こーせい」に東大裏の警視局射的場跡#shorts」をアップしたので、リンクする。
【主な参考文献】
『東京市史稿市街篇第五十六』東京都 昭和40年(1965)『同五十八』昭和41年
『同五十九』昭和42年
「東京日日新聞」明治13年(1880)4月16日
『新聞集成明治編年史第三巻』明治編年史編纂会編集 財務経済学会 昭和12年(1937)
『明治ニュース事典第二巻』明治ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ 昭和58年(1983)
『東京百年史第二巻』東京百年史編集委員会編集 東京都発行 1972年(昭和47)『東京百年史別巻』東京都総務局総務部東京都公文書館百年史編集係編 東京都総務局総務部発行 1979年(昭和54)
『文京区史第三巻』文京区役所 1981年(昭和56)
『向ヶ岡貝塚―東京大学構内弥生二丁目遺跡の発掘調査報告書―』東京大学文学部考古学研究室編集 東京大学文学部 昭和54年(1979)
『谷中・根津・千駄木67』谷根千工房 2001年(平成13)10月15日
『日本ライフル射撃協会史(大正・昭和編)』平成6年(1994)
『大田区史下巻』平成8年(1996)
『宮崎県警察史』宮崎県警察史編さん委員会編集 宮崎県警察本部発行 昭和50年
士族の反乱「西郷隆盛の西南戦争」に備え「警視局射的場」を急設
山海堂『土木施工』2004年(平成16)9月号
東京大学本郷キャンパスの弥生門の前には、暗闇坂を挟んで弥生美術館・竹久夢二美術館があり、その後方には弥生二丁目の浅野地区工学部キャンパスがある。
暗闇坂と東大浅野地区の間の区画は、住宅とビルが混在する住宅地だが、明治時代に巡査の射撃訓練所があった所で、明治16年(1883)の測量地図を見ると、「東京共同射的会社」と表記され、長方形の射撃場が現在の通りの位置と重なって興味深い。
明治2年(1869)に事実上の首都となった東京の警備は、5年以降は司法省管轄の「邏卒」と、民費で俸給を支給する民設の「番人」によって行われていた。
7年(1874)1月には、新設された内務省の治安行政の一環として、鍜治橋の旧津山藩邸に「東京警視庁」が設置され、邏卒は「巡査」と改称、番人は廃止された。そして、国事犯(政治犯)はすべて警視庁の権限とされたため、その権限は全国に及んだ。
近代国家建設のため「武家の特権廃止」で「不平士族の反乱」勃発
「藩籍奉還」で武家身分廃止、秩禄廃止し一時金支給の「秩禄奉還」
薩摩長州勢力を中心とする明治新政府は、近代国家建設のために封建的身分制度を撤廃。藩籍奉還で藩主と藩士の主従関係を解消。藩主を華族、藩士や旧幕臣を士族とし、百姓・町人を平民とした。
一方で政府は華族と士族に金額は減少したが「家禄」を支給、王政復古の功労者には「章典禄」を与えた。これらの「秩禄」(家禄・章典禄)の支給額は政府支出の3割を占めた。
そこで政府は、明治6年(1873)に秩禄を廃止して一時金を支給する「秩禄奉還」に変更。そして9年には、年金支給額の5~14年分の金禄公債証書を支給し秩禄を全廃する「秩禄処分」を断行、「廃刀令」を実施して士族の特権を奪ったのだ。
士族の不満を朝鮮との戦争に転用の「征韓論」挫折で西郷や江藤らが下野
政府は鎖国政策をとる朝鮮に国交を求めたが拒否された。岩倉具視らの政府欧米視察団の留守を担う西郷隆盛らは、特権を奪われ不満の士族を朝鮮との戦争に動員する構想を描いていたが、帰国した岩倉らが反対し西郷は下野した。この征韓論の挫折は士族の不満に火をつけ、明治7年(1874)1月31日に「佐賀の乱」がおき、警視庁は巡査を派遣して警戒にあたった。
警視庁は士族の反乱に対応するため、明治7年10月4日に練兵、操銃等の実戦訓練を行う警備編制所を本庁内に設け、10月9日には東京の上野山内に巡査射的演習場を設置した。しかし、上野の射撃場は、銃の性能が悪いため弾丸が場外に飛散、近隣に負傷者を出したため休業状態になった。
そこで明治9年(1876)年1月、向ヶ岡弥生町の旧水戸屋敷の一部を、警視庁が射的場と病院の建設用地として取得し、そのうちの4600坪が巡査の小銃射撃場用地になった。
言問通り側から不忍池に向かって小さな谷になっており、この擂鉢形の地形を利用して四方に土手を築き、弾丸の飛散防止壁とし、着弾点の手前は深く掘り下げて水溜にした。
熊本、秋月、萩、西郷隆盛西南戦争「士族の反乱」を警視庁が鎮圧
明治9年(1876)年1月、熊本の神風連の反乱を皮切りに、秋月(福岡県)、萩(山口県)でも士族の反乱が起き、警視庁は巡査を派遣して鎮圧にあたった。
翌明治10年(1877)年1月、東京警視庁は廃止され内務省に統合、内務省警保寮を警視局と改称した。これは財政上の問題からの行政機関の整理統合であったが、予測される西郷隆盛を首領とする薩摩士族の反乱に備えるものでもあった。
弱体な地方の警察力を整備強化するため、当時最も訓練の行き届いた警視庁を解体して警察権力を内務省が掌握し、全国の警察を統一して治安維持にあたらせようとしたのだ。
そして、明治10年(1877)年2月に西郷隆盛が挙兵した。しかしこの「西南戦争」は9月には鎮圧され、これを最後に士族の反乱は終息した。向ヶ岡弥生町に完成した「内務省警視局射的場」が訓練を開始したのは10月9日のことだ。そして警視庁は明治14年(1881)に再設置された。
▲紙芝居『石井十次青春物語』松本こーせい 石井記念友愛社
▼西南戦争の銃弾の跡 鹿児島市城山公園付近 ※筆者撮影
▼暗闇坂を挟んで東大本郷キャンパス(右)と警視局射的場(のちの東京共同射的会社)跡の弥生二丁目(左) ※写真はいずれも筆者
▼警視局射的場跡の竹久夢二美術館・弥生美術館
▼警視局射的場の「水溜」があった辺り
▼「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑
「警視庁射的場」改築し小銃射撃場「東京共同射的会社」設立
向ヶ岡弥生町の警視庁射的場を改築し、1万3000坪を擁する民間の小銃射撃場「東京共同射的会社」が設立されたのは、明治15年(1882)のことだ。西郷隆盛の弟で参議兼陸軍卿の西郷従道、村田銃の考案者で射撃の名手村田経芳らの要人が発起人となり、小銃射撃訓練を通して軍事思想の普及をめざした。
その前の警視局射的場の開設は明治10年(1877)10月だが、東京大学の前身である東京医学校が本郷の文部省用地に移転してきたのは、その前年の9年で18年(1885)には理学部が移転して東大本郷キャンパスが完成している。そして向ヶ岡界隈にも次第に人家が増えてきたため、東京共同射的会社は明治21年(1888)に大田区山王二丁目に移転した。
翌22年に「大森射的場」が完成、これを機に「大日本帝国小銃協会」と改称した。
しかしこの地も宅地化が進んだため、大正12年(1923)大森射的場はその一部にテニスコートをつくり、射的場の三分の二を分譲地にして、神奈川県の鶴見へ移転した。
▼警視庁射的場跡に設立された「東京共同射的会社」が移転した「日本帝国小銃射的協会」跡にある「日本帝國小銃射的協會跡」の碑(大田区の大森テニスクラブ傍)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆明治政府の武器製造所◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
徳川幕府が幕末期に小石川関口(文京区)に建設した銃砲火薬類製造修理工場の「関口製造所」は、明治政府に収用されて「軍務官兵器司」になった。明治4年(1871)には小石川水戸藩邸(文京区)を陸軍用地にして、「造兵司事務所」をこの地に移して「砲兵本廠」と改称。陸軍卿直属の軍事工場として銃火器の研究量産を進めた。
明治8年(1875)、陸軍戸山学校教官村田経芳が新型小銃を考案し、翌9年に製造を開始。この村田銃は明治15年(1882)に陸軍の御用銃に定められた。
砲兵本廠は、明治10年(1877)の西南戦争前後に銃の修理や弾薬製造で規模を拡大。明治12年(1879)、砲兵本廠は兵器弾薬製造の東京砲兵工廠と、兵器の貯蔵供給の砲兵第一方面本廟となった。東京砲兵工廟などの官営軍事工場は兵器生産だけでなく、紡績機用原動機や鉱山用機械などの生産手段も製造した。
「東大弥生町発掘調査」で出土した「射的場出入口と弾痕」
東京大学埋蔵文化財調査室は2001年(平成13)に「弥生町発掘調査」を実施、その過程で「警視局射的場の跡」を確認している。タウン誌『谷中・根津・千駄木』67号は、埋蔵文化財調査室の原裕一さんに発掘現場で次のような話を伺っている。 以下一部抜粋引用 (※)は筆者(私)
「射的場の出入り口と、弾痕五個が出てきた。射的場の出入り口として使われていたと思われる階段状のスロープが見つかりました。スロープには一尺(※約30.3cm)置きに滑り止めの角材が配置され、路面には砂がまかれています」
「西郷隆盛ロシア亡命帰国説」が招いた「ロシア皇太子襲撃大津事件」
「西郷隆盛ロシア亡命帰国説」が招いた「西南戦争従軍巡査の暗殺未遂」
明治24年(1891)に来日したロシア皇太子ニコライが、琵琶湖遊覧の帰途、滋賀県大津市を通過中、警備の滋賀県警津田三蔵巡査に斬りつけられ負傷するという「大津事件」が起きた。
津田の犯行動機のひとつに「西郷隆盛ロシア亡命説」なるものがあった。西南戦争に敗れた西郷隆盛はロシアに逃れており、ロシア皇太子の来日目的は、西郷が日本に帰国し、天皇に拝謁して恩赦を受けるようにするためというのだ。金沢第七連隊第一大隊の隊員として西南戦争に従軍したことで巡査になれた津田は、西郷恩赦が実現すると従軍の功が取り消され、巡査の職を失うのではと思い詰めていたという。
「司法権の独立」の問題としての「大津事件」
この大津事件は「司法権の独立」の問題としても有名で、その経緯は次のようなものだった。
青木周蔵外務大臣がロシア皇太子の来日に際し、万一危害を加える者があった場合は、刑法116条の「皇室に対する罪(死罪)」の適用を約束していたため、ロシア側は日本政府に約束の履行を迫ったのだ。
外務省翻訳局長の小村壽太郎(のちの日露戦争時の外務大臣)は、津田三蔵の調書の英訳に従事。津田がロシアの侵略政策を憤慨した部分は詳細に訳して提出したが、そこには日本では一介の巡査でも愛国精神に燃えていることを、海外に明らかにする狙いがあった。
霞が関では官僚たちが大津事件について意見を交わしたが、小村は「ロシアにおもんばかって法を曲げて、津田を死刑にするのは理由のないことだ。死刑はロシアの刑法にもないから、びくびくせんでもよい」と主張して一目置かれたという。
そして大審院検事総長の三好退蔵(のちに大審院院長)もまた、「外国皇室に対する罪はなく、謀殺未遂は死刑に一等または二等を減ずることになっているので、津田を無期徒刑以上にはできない」と主張した。
しかし政府はロシアへの謝罪上、津田を死刑にするため「皇室に対する罪(死罪)」の適用を決め、この罪状での起訴を三好退蔵大審院検事総長に命じた。
これに対して大審院院長の児島惟謙は、津田を通常の謀殺未遂で裁いて無期徒刑に処し、司法の独立を守ったのだ。
ちなみに、勅命により京都に派遣されてニコライ皇太子の治療にあたったのは、海軍軍医総監の高木兼寛(のちに慈恵医科大学を創立)で、小村壽太郎、三好退蔵、高木兼寛はいずれも宮崎県出身者だ。
▲松本こーせい『東京の中の宮崎』「大津事件の高木兼寛・小村壽太郎・三好退蔵」宮崎日日新聞社