「厳島神社大鳥居東主柱用の楠巨木」江戸時代に「日向国で伐採・荒天下の搬送中あわや海底へ!」 

厳島神社大鳥居材の伐採搬送

日本三景」安芸の宮島世界遺産・国の重要文化財「厳島神社」(広島県廿日市<はつかいち>市)は改修工事中で、海中にたつ「大鳥居」は昨年(2022年・令和4年12月)に工事を終了。「東回廊・西回廊・多宝塔」の工事が行われている。

今回使用した参考文献では、現在の大鳥居を「8代目」としているが、厳島神社公式サイト「厳島神社大鳥居の修理工事について」は「平清盛公の援助による仁安(にんあん)造営時代を初代とすると現在のものは9代目にあたる」としている。そこで参考文献の引用個所はそのまま「8代目」とし、「※現在では9代目とされる」と注記した。
厳島神社公式サイト
「厳島神社大鳥居の修理工事について」 pamphlet_hp.pdf (itsukushimajinja.jp)
「工事状況について」工事状況及び計画 嚴島神社【公式サイト】国宝・世界文化遺産 (itsukushimajinja.jp)

大鳥居の東主柱江戸時代宮崎県西都市の岡富(おかとみ)住吉神社から伐採・搬送された一本木のクスノキ築造されたが、昭和26年(1951)に破損部がみつかり、根継ぎがされた。

そして今回の令和の改修工事中に一本木の芯付近部分の一部剥落。その部分が住吉神社に譲渡返送され奉安(尊いものを安置すること)された。そこでこのクスノキが、江戸時代の文久3年(1863 14代将軍家茂)に伐採され、搬送中に海底に沈みそうになった話を紹介しよう。

わたしはこの「厳島神社鳥居材の伐採・搬送」を自ら脚本イラストマップを手掛け出演した、MRT宮崎放送のテレビ「松本こーせいのみやざき歴史発見」「厳島神社大鳥居は西都住吉神社のクスノキ」と題して放送している。そこで今回は番組の脚本であらましを紹介。そのあとに脚本執筆の参考文献で詳しく説明する。

住吉神社から番組宛にこの話の放送依頼があり、それを受けて放送に至ったもので、その経緯については、当ブログ「図解・イラストマップ」の「出演テレビ番組用イラストマップ」の「松本こーせいの宮崎歴史発見」に簡略に記載している。
https://koukisin-sanpokoukogaku.com/blog/?page_id=758

また、このブログの予告編的YouTubeショート[松本こーせい@koseisanpo]に「厳島神社大鳥居東主柱の日向伐採」をアップしたのでリンクする。

参考文献
『厳島神社国宝並びに重要文化財建造物昭和修理綜合報告書』「明治八年大鳥居重造記」
 国宝厳島神社建造物修理委員会編 国宝厳島神社建造物修理委員会  昭和33年(1958)3月
『藝備地方史研究第二巻第二號』「嚴島神社大鳥居に就て」小泉來兵衞(広島市史編集委員)
(転載『厳島神社国宝並びに重要文化財建造物昭和修理綜合報告書』編集兼発行者国宝厳島神社建造修理委員会 昭和33年〔1958〕3月)
『宮島町史 建築編』広島県宮島町編集 1997年(平成9)
「大鳥居材用取寄せ道中日記寫 俯諸要用材積書及出來入用書」伊藤亀吉 大正6年(1917) ※父萬吉加茂屋萬吉)の「文久三年道中日記帳」(本文表紙の表記)を息子の亀吉が写したもの
岡田貞治郎(元厳島神社技師、文化財建造物保存技術協会参与、社寺建築設計監理)「海中の大鳥居は潮との闘い」『四国新聞』1985年(昭和60)年3月3日
「厳島神社大鳥居の事」岡富住吉神社宮司濵砂孝行
「岡富住吉神社由緒」岡富住吉神社宮司濵砂孝行 

「厳島神社大鳥居東主柱の楠」は「日向国住吉神社で伐災・搬送」

MRT宮崎放送テレビ「松本こーせいのみやざき歴史発見」(「アッパレmiyazaki!」のコーナー番組)第19回「厳島神社大鳥居は西都市住吉神社の巨木」
ロケ・平成25年(2013)3月22日(金) 放送・3月28日(木)
国宝・世界文化遺産の「厳島神社大鳥居」の東主柱の楠が江戸時代に日向国から採取・搬送された経緯とは?

▼スタジオ
[松本こーせい]
厳島神社の海に立つ大鳥居は国宝・世界文化遺産としても有名ですが、この大鳥居の東主柱は、江戸時代西都市の住吉神社から切り出されたクスノキの巨木なんですね。その経緯を紹介します。

岡富住吉神社に展示の「厳島神社大鳥居の写真・説明パネル」                    向かって左側の東主柱が住吉神社で伐採されたクスノキ

▼西都市・岡富(おかとみ)住吉神社
○<ロケ映像> 西都市・岡富住吉神社
[リポーター]
西都市岡富の「住吉神社」にやってきました。今回はどんなお話でしょうか。

[松本こーせい]
はい、今回は広島県宮島の厳島神社の大鳥居住吉神社にまつわるお話です。
[リポーター] 
え~! 海の中に建てられた厳島神社の大鳥居と、この住吉神社が関係あるんですかぁ?
[ナレーション] 
厳島神社の大鳥居平清盛造営に始まり、現在のものは明治8(1875)年に再建された8代目(※現在では9代目とされる)で、社殿とともに国の重要文化財に指定され、世界文化遺産にもなっています。

[松本こーせい]
厳島神社の大鳥居と住吉神社の関係を記したものがあるんですけれども、これがその石碑です。
[リポーター]
廣島縣巌島大明神樟樹(クスノキ)之遺跡」、「文久三年(1863)五月伐採」と記されていますね。

[松本こーせい]
厳島神社大鳥居の正面左側の東主柱は、いまから150年前(※放送当時)に住吉神社境内から切り出されたクスノキで造られているんです。
 [リポーター]
えー、凄いですね~、この境内にそんな大きな木が生えていたんですか?
[松本こーせい]
いや、住吉神社は移転してきているので、移転する前の境内にあったんですね。その辺りの経緯を宮司さんにお伺いましょう。
[インタビュー]  岡富住吉神社宮司 濵砂孝行さん

 

[濵砂孝行宮司]
住吉神社は「航空自衛隊新田原基地周辺移転措置」によって、昭和50年(1975)にここに移転してきたので、厳島神社の大鳥居に使われたクスノキは、移転する前の神社境内にあったものなんです。
[リポーター]
その場所はどこなんですか?
[濵砂孝行宮司] 
はい、向こうの方に東九州自動車道が見えますが、住吉神社はそのそばの山の上にありました。これから案内しましょう。

▼西都・岡富(おかとみ)住吉神社旧境内地 一ツ瀬川
○<ロケ映像> 西都・岡富住吉神社旧境内地
[リポーター]
住吉神社の跡にやってきました。すぐ下を東九州自動車が走っていて、ここに神社があったとは思えない狭い場所ですね。
[濵砂孝行宮司]
高速道路が通る前は、こちら側と向こう側とは地続きだったんですね。この一帯には集落があって、高速道路の半分くらいの所までが神社の境内でした。
[松本こーせい]
ここに住吉神社があったので、高速道路の上の陸橋は「宮前橋」という名前になっていますね。

宮前橋でのロケ 下を通る高速道路の半分から向こう側一帯が住吉神社の境内だった

[リポーター]
厳島神社の大鳥居になったクスノキはどこに生えていたんですか。
[濵砂孝行宮司]
向こう側に社殿があって、その手前のこの場所にクスノキがあったんですね。樹齢700年から800年で、高さが16mもあり、住吉神社に黄金が少々支払われたということです。


[ナレーション]

7代目(※現在では8代目とされる)の大鳥居大風傾いたため、広島藩主浅野家新しい大鳥居を寄進することにしました。

主柱(しゅちゅう)の巨木を大阪、和歌山などの関西圏で探しましたが見つからず、西都市岡富にわずかに1本あることがわかり、これを大鳥居の東主柱にしたのです。
しかし、これに匹敵する大きさの木が見つからなかったため、香川県から伐採した大木に接ぎ木をしたうえで西主柱にしました。
[松本こーせい]
住吉神社のクスノキを切り出すために、関係者が宮島から熊本経由で宮崎県の延岡に入り、文久3(1863)年に西都に到着して伐採したんですね。

▼西都・岡富(おかとみ)住吉神社跡地 一ツ瀬川
○<ロケ映像> 一ツ瀬川の新瀬口橋の上
[リポーター]
元の住吉神社の近くを流れる一ツ瀬川にやってきました。
[松本こーせい]
はい、クスノキはあの山から切り出されて、一ツ瀬川から佐土原の海岸に運ばれたんですね。

一ツ瀬川 その奥が日向灘

[リポーター]
16mもある大きな木を厳島神社までどうやって運んだんですか?
[松本こーせい]
を並べてその上に乗せたに乗せて船で引いたようで、佐土原を出航して美々津、細島、島の浦に立ち寄っています。
四国沖ではクスノキが海中に沈み海女さんに引き上げてもらったそうです。

 切り出し作業から9か月後元治(げんじ)元年3月(1864 14代将軍家茂(いえもち))、宮島到着しました。
[リポーター] 
たいへんな苦労があったんでしょうね。西都市のクスノキが、あの世界文化遺産の大鳥居になったというのを知って驚きましたが、宮崎県民にとってすごい誇りですよねぇ。
[松本こーせい]
そうですね、今の大鳥居ができて138年目(注・放送当時)になりますが、これからも宮崎のクスノキが支える大鳥居であってほしいですね。

「広島藩が大鳥居用楠奉納」も「再建は11年後の明治8年」

7代目(※現在では8代目とされる)大鳥居大破から8代目(※現在では9代目とされる)再建」の経緯を時系列で記し、再建に年月を要した理由を説明する
()(※)[]は筆者(私)による
7代目(※現在では8代目とされる)大鳥居大破]
7代目(※現在では8代目とされる)大鳥居
享和元年(1801 
11代将軍家斉(いえなり)4月 広島藩主浅野家造営
嘉永3年(1850 
12代将軍家慶)8月 大風で大破。(造営から49年後)
 ↓
広島藩主浅野家が再建のため、クスノキの巨木を探し求める。
摂津
(大阪・兵庫)、伊賀(三重)、河内(大阪)、紀伊(和歌山)、大和(奈良)播磨(兵庫)等を探すが見つからず。

日向国児湯郡岡富(宮崎県西都市)に高さ幹の太さともふさわしい巨木を1本だけ見つける
「明治八年大鳥居重造記」(『厳島神社国宝並びに重要文化財建造物昭和修理綜合報告書』)

日向国児湯郡岡富(おかとみ)村で伐採・搬送
「明治八年大鳥居重造記」(『厳島神社国宝並びに重要文化財建造物昭和修理綜合報告書』)より
文久3年(1863 14代将軍家茂(いえもち)
1月28日宮島出発
2月晦日 岡富村(宮崎県西都市)到着
6月11日~(雨や風の影響で遅れた)切り出し作業開始 ※岡富村到着から4か月近く経過
7月19日 一ツ瀬川河口にクスノキ到着
11月23日 宮島に向け出港
文久4年(1864)
1月26日 佐賀関(さがのせき 大分県)大風が岩に打ち付けられてバラバラ、クスノキ沖に流れ海女に依頼してつなぐ


「宮崎から運んだものはエピソードが多い。地元人夫と厳島からの人足間の争い、船で引いて帰る途中四国沖樟が海中に沈み、海女を雇いあわてて引き揚げる等…」元厳島神社技師岡田貞治郎『四国新聞』


元治(げんじ)元年(1864 文久4年2月20日元治改元
3月12日 宮島へ帰着 ※岡富村到着から13か月後  切り出し作業開始から9か月後

佐賀関での筏大破による鳥居木の流失と回収
「大鳥居材用取寄せ道中日記寫」伊藤亀吉 加茂谷吉「文久三年道中日記帳」の写し」)
一部抜粋要約 ()は筆者(私)による
文久4年(1864)1月26日
大風につき御鳥居木ともに打ち掛け、筏ばらばら成り、御鳥居木は三、四十間(約55m~72m)沖に流れ出て留めることもできず、あま(海女)に頼んで28日に引き上げた。

[8代目(現在では9代目とされる)大鳥居の再建
明治3年(1870)(西都市の住吉神社から伐採のクスノキに)匹敵する主柱1本柱見つからず
明治5年(1872) 政府に再建伺いするが、政府支出しない意向のため寄付金を募る。
香川県観音寺市クスノキに根継ぎをして西主柱にすることに。
明治8年(1875)年 再建 ※クスノキ奉納から11年後
昭和26年(1951)年 昭和の大修理で東主柱に破損がみつかり、根継ぎをする(福岡県甘木[あまぎ]市・現在の朝倉市クスノキ

『藝備地方史研究第二巻第二號』「嚴島神社大鳥居に就て」小泉來兵衞(広島市史編集委員)
(※)は筆者(私)による補注 旧漢字は当用漢字に改めた
八代(※八代目大鳥居 現在では9代目とされる)
明治8年(紀2535 ※西暦1875年)7月重造(嚴島大華表重造記、村田良穂誌)
この大鳥居は、現在のものである。嘉永3年(※1850年)の大破により24年間も、其姿を見ることを得なんだ
明治の初年頃より再建の議が起こったが、(※明治)維新前後の際とて、其機運に至らず明治5年(※1872)に教部省明治初年の教化・宗教行政機関)へ再建を願い出て、許可は得たが、国家多難の折から、「地方適宜を以て処分可致、尤も公費不相応候事」との指令があった。(略)

浅野家より主柱となすべき、楠木二本を寄進せられたのに(※神官はじめ融資者は)力を得て奮起し、各地に弘く人を派して浄財を募り、郡内より人夫を徴し、或は材木醵出せしむる等、漸く其緒に就き、広島県権令(※県令に次ぐ地方長官)伊達宗興も之に協力して此大事業を遂行せしめた。
明治7年(※1874年)10月斧初、8年7月18日上棟式を挙げた。(略)

主柱の用材は、(※東主柱が)日向国児湯郡岡富(おかとみ)村(※宮崎県西都市岡富)及び(※西主柱が)讃岐国丸亀和田浜(※香川県)、根継ぎ材厳島亀居山のものを採用、両柱とも楠の自然木である。(小泉家文書)

(※鳥居の)総高5丈3尺3寸(※約16m14cm)。主柱高4丈4尺5寸(※約13m48cm)。下端囲 東主柱2丈7尺5寸(※約8m25cm)西主柱3丈3尺3寸(※約10m80cm)。 棟長7丈7尺1寸(※約3m11cm)。(大華表重造記附圖)

「伐採地の宮崎県西都市岡富住吉神社」が記す「厳島神社大鳥居」

大鳥居用材のクスノキの伐採地である岡富(おかとみ)住吉神社宮司濵砂孝行さんは、歴史資料をもとに「厳島神社大鳥居」について下記のように詳しく記している。

また、濵砂さんにご提供いただいた賀茂谷萬吉「文久三年道中日記帳」には、道中一行の岡富村での宿泊先が「宿源三郎」と記されている。濵砂さんこの「源三郎」について、源三郎の海老原家系図をもとにその家系辿っている。地元ならではの貴重な資料となっているので紹介しよう。

『道中日記』の「宿泊先岡富村の源三郎」とは?岡富住吉神社宮司濵砂孝行
()(※)[※]筆者(私)による注記・補足 字間、行間、段落も適宜設けた
平成二十五年(2013)当時の記録を調べると、岡富(おかとみ)村 源三郎とは、現西都市大字岡富住人海老原家当主 海老原千秋氏の先祖
海老原家は家系譜によると家系譜によると文徳(もんとく)天皇の御代(※天長4年827年~天安2年858年)に佐々木源三郎秀義の嫡子源右衛門定經の時、承久の乱(※1)で関東方に付き、後に関東方に反し誅畢(※成敗)され、平義時の婿養子となり、応永二年(※1395年)讃岐池田七郎を討ち、その忠節により田中郷七拾町を賜り従具(じゅうぐ※従うこと)、田中と名乗る
(※1)承久の乱 承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権北条吉時追討の令を出した戦で、敗れた上皇は隠岐に流された。

その後 維行の時初めて海老原の姓を名乗る。年代不明、行政の代に分家か。一族には出家して法名法久、児湯郡新田本連寺の住職後に諸県(もろかた)郡浦ノ名本永寺に転任している。

海老原家は新瀬口橋を渡り 住吉神社旧境内地下の道路を右折して直ぐの岡富、新田境の手前左山際にあって茅葺屋根であった。今は新田原(にゅうたばる)基地周辺整備により地区民全員新瀬口橋周辺に移転している。

海老原家がいつ頃から居住したかは不明であるが、記述によれば海老原源十郎為重は寛永七年(1630 3代将軍家光)辛未誕生 路傍土姓也 母見上 岡富村住居福人(※金持ち)也 家来十五人 牛馬拾五疋とあり 裕福な大百姓であったと思われる。(中略)[※クスノキ伐採・搬出の]文久三年(※1863 14代家茂)の当主源三郎為喜である。

父は海老原源之丞 母は大野新助女(※娘) 妻は須田安兵衛門女(※娘)ワサ 源三郎は明治十五年(※1882)旧三月八日帰幽(※死去) 行年六十歳 ワサは明治二十六年(※1893)旧七月二十日帰幽 行年六十歳
[※クスノキ伐採・搬出の]文久三年(※1863)は源三郎四十六歳の時である。 其の子は源蔵 昭和二十六年(※1951)帰幽 現当主千秋の父である。 

修善中に「剥落した東主柱の一部」が「住吉神社に譲渡され奉安」

岡富住吉神社に御神体として譲渡返送・奉安された東主柱芯付近の一部(写真提供・岡富住吉神社)

厳島大鳥居の東主柱は、昭和26年(1951)年 昭和の大修理で東主柱破損がみつかり、根継ぎ福岡県甘木(あまぎ)<現・朝倉市>のクスノキ)がされていた。
そして令和元年(2020)からの大鳥居修理工事の際、東主柱をクレーンで持ち上げた際に、シロアリの被害にあっていた主柱内部の一部が剥がれ落ちたという。

そこで西都市の岡富(おかとみ)住吉神社宮司濵砂孝行さんは、旧境内地が東主柱用クスノキの伐採地であることから、「大鳥居東主柱の楠材を御神体として奉安(尊いものを安置すること)の上、境内厳島社奉祀したい」旨を、厳島神社に要望した。

これに対し厳島神社は「昭和26年(1951)の根継ぎの際に切り出した根本材には、お渡しできるものがございませんでしたが、今期(令和)の修繕工事において、主柱芯付近の一部が剥がれ落ちて保管しているものがあり、当該材で良ければお譲りが可能です」

「これは過去の蟻害によって脆弱となり破損落下したもので、部分的に状態を見て切り分けも出来るかと存じます」との回答を得た。
「文化財である大鳥居をわずかでも外部に提供することは、例外中の例外」だという。

こうして住吉神社から伐採された東主柱の一部が、昨年(令和3年・2022年)12月譲渡返送された。文久3年(1863)に伐採・搬出されてから157年ぶり里帰りであった。住吉神社によると長さ約150cm直径最大約50cmである。

これを受け住吉神社では、この柱の一部をご神体として拝殿奉安した。「参拝した地元の人々の中には、感慨のあまり涙ぐむ人もいた」という。

住吉神社には御稲荷様、天神様、大国主命を祀る境内社があるが、今回新たに「厳島社」を合祀した。こうして、東主柱用クスノキの伐採地である住吉神社に、「御神体東厳島大鳥居主柱の一部」とともに「厳島社」の両方がそろったのである。

西都市の岡富住吉神社濵砂さんは、広島県廿日市(はつかいち)市の厳島神社とのクスノキの御縁を活かした交流を深めようと、両市の姉妹都市実現を目指して市議会に提案するなど、積極的に活動している。

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