大名家の国元から江戸屋敷に赴任した「江戸勤番武士」。そんな彼らを江戸の町人は野暮な田舎侍と馬鹿にして「浅黄裏」と呼んだ。江戸赴任に際して藩から支給される支度金では足りないため、藩士自身が金策した「宇都宮藩」の事例を紹介、そんな「江戸勤番」が訪れた「江戸の名所行楽地」を列挙する。
また「11代将軍家斉の側近」として権勢をふるい、「諸大名からの賄賂を誇った中野清茂(中野石翁)の別荘」を「植木屋の庭と勘違いして見物した上に、御馳走になってしまった某大藩の勤番武士」の一件を、「江戸見物の注意例」として紹介する。
このブログの予告編的YouTubeチャンネル「松本こーせい」はこちらをどうぞ
【参考文献】
『すみだ史談第17号』「曾祖父へのバラードー江戸詰勤番藩士の生活ー」平木葭舟 すみだ史談会 平成7年(1995)
『江戸勤番武士の心と暮らし 参勤交代での江戸詰日記から』酒井博 酒井容子 文芸社 2014年(平成26)
鳶魚江戸文庫16『大名生活の内秘』三田村鳶魚著 朝倉治彦編 中公文庫 中央公論社 1997年(平成9)
日本歴史叢書新装版『参勤交代』丸山雍成 日本歴史学会編 吉川弘文館 2007年(平成19)
『江戸御留守居役の日記ー寛永期の萩邸ー』山本博文 読売新聞社 1991年(平成3)
「宇都宮藩」赴任費用藩士も負担 田舎侍の代名詞「浅黄裏」は着用せず
「すみだ史談会」平木葭舟さんの「曾祖父へのバラ―ド―江戸詰勤番武士の生活―」は、文久2年(1862 14代家茂)生まれの祖父から聞いた「宇都宮藩(栃木県)7万7千石御徒士席の曾祖父の江戸勤番体験談」を記したもので、曾祖父は「江戸下屋敷」(江東区深川)への赴任に際し、藩から臨時の「御渡金」が下賜されたが、「赴任者自身も費用を工面」したという。
()(※)[]は筆者(私)による注記
江戸に赴任する藩士は、麻裃・仙台平袴・定紋附羽織・着物・大小刀柄袋・襦袢・下帯・白及び紺足袋・細引・油引合羽・葦作弁当箱・草鞋・足薬などを用意しなければならなかった。
藩からは臨時御渡金として3両が与えられたが、これでは賄いきれないため、不足分は家臣自身の所持金と親類縁者や友人からの餞別等で工面し、家禄の低い者は借金をしたり、価値のありそうな書画を処分して費用に充てたという。
田舎侍の代名詞「浅黄裏」を軽佻浮薄として着なかった宇都宮藩士
祖父の話では、曾祖父の江戸在府中(文久3年〔1863〕 14代家茂)、他藩の勤番は木綿の着物を着ていたが、川柳によまれ田舎侍の代名詞とされた「浅黄裏」は、使用していなかった。そして「宇都宮藩では、浅黄裏を使って自分を粋がって歩く軽佻浮薄な気分での勤務は許されなかった」という。
「天明(1781~89年 10代家治)文化(1804~1818年 11代家斉)の頃、そのような粋がった遠国侍もいただろうが、歌舞伎や洒落本・滑稽本等の戯作者が面白おかしく描写したもので、ださい田舎っぺ侍達を軽侮揶揄しての言葉であったのだろう」と祖父が語っていたという。
野暮な田舎侍の代名詞「浅黄裏」の代表格「薩摩藩士」
胴裏に浅黄木綿地の羽織を着る野暮な江戸勤番武士を町人は「浅黄裏」と呼び、田舎侍の代名詞としたが、その代表格が野蛮で粗暴な振る舞いの薩摩藩士で、芝の中屋敷に近い品川女郎の常連であることや犬喰い、男色の習慣等江戸屋敷での生態が川柳に詠まれた。「抹香のにほひ国分の香におされ」(品川女郎の客で抹香は増上寺の僧、国分は薩摩名産の煙草で薩摩侍)「赤犬が紛失したと芝でいひ」「地紙売芝の屋敷でくどかれる」(薩摩屋敷の窓から紙売りを口説く)。

▲松本こーせい 『令和元年度宮崎県文化講座研究紀要 第四十六輯』「散歩考古学 江戸の中の日向諸藩』
宮崎県立図書館 令和2年(2020)
臼杵藩稲葉家江戸勤番が見物した「江戸名所行楽地」
臼杵藩(大分県)稲葉家5万6千石の国枝外右馬は、天保13年(1842 12代家慶)の参勤交代で江戸に赴任、上屋敷(港区西新橋)に勤めた。その仕事は藩主の近くに使える「近習」で、「御駕籠脇・棒鼻(※駕籠舁き棒の先端)役」などを務めた。藩主の江戸城登城の御供に付き従い、内桜田門の外で他の大名の御供衆と一緒に藩主のお下がりまで待機する任務に従事、国枝には二人の家来がいた。そんな「国枝外右馬の日記」から、彼が見物した江戸名所とその感想などを列挙する。
()(※)[]は筆者(私)による注記
[大田区]蒲田梅屋敷
国枝「一段風流にて、俗客には向きがたき風なり」
[品川区]藩主の東禅寺参詣の御供 御殿山(八つ山)桜見物 岡場所品川
東禅寺参詣の際、国枝の家来梅吉、品川の海で泳ぎ「臼杵の海より塩がこゆくない」
▼『江戸名所図会』「御殿山花見」

[台東区]上野桜見物 [墨田区]三囲桜見物 [豊島区]染井桜見物
国枝は「上野・みめぐり(※三囲)・御殿山・染井といった桜の名所はすべて見物した」という
[台東区]浅草
▼「浅草観音」『方言修行 金草鞋』十返舎一九 喜多川月麿画

猿若町芝居小屋

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1302578
[港区]増上寺と門前の神明社(芝大神宮)祭 高輪 烏森稲荷 愛宕山
▼『江戸名所図会』「愛宕山」


[目黒区]目黒不動
[中央区]鉄砲洲南八丁堀の橋から富士山眺望
[江東区]永代橋 永代寺 富岡八幡(深川八幡) 三十三間堂
[北区]王子権現から筑波山・日光中善寺眺望
▼松本こーせい『土木施工』「なぞのスポット東京不思議発見40 飛鳥山崖に隠れた狛犬が伝える
豪族豊島氏の熊野の神々勧請」

[文京区]根津権現
江戸城下馬見見学 画隣の京極屋敷邸内社金比羅祭 愛宕山から市中の七夕飾り見物 雑司ヶ谷鬼子母神 広尾が原へふつ(よもぎ)摘み
江戸勤番の「ふつ摘み」はよくある光景だったのか、川柳に「陣笠で摘み草に出る浅黄裏」とある。
家斉側近「中野石翁の別荘」を「某藩勤番が植木屋と間違い見物」の代償
養女「お美代が家斉の側室」になり「権勢振るった賄賂取り中野石翁」
()(※)[]は筆者(私)による注記
墨田区堤通1-1の墨堤通りの辺りに、11代将軍家斉の側室お美代の方の義父として権勢をふるった中野清茂(石翁)の別荘があった。初めて江戸勤めになった某大藩の二人が、石翁の別荘を植木屋と勘違いして見物して御馳走になり、事の次第を知った江戸屋敷が震え上がったという話がある。
※中野石翁については、当ブログ「将軍家斉の側室がおねだりの感応寺」に詳述。
https://koukisin-sanpokoukogaku.com/blog/?p=2135
この二人の江戸勤番は、休日ごとに江戸名所めぐりを愉しみ、深川八幡、浅草観音などを見物していた。ある日隅田川沿いのあぜ道を散策して、牛島神社、白髭神社、梅若塚、関谷の里などを見物、この辺りは植木の花つくりがさかんなので、植木屋を見て歩いた。
▼『東都歳時記』「隅田川堤看花」

▼松本こーせい『好奇心まち歩きすみだ歴史』「中野石翁別荘跡 向島百花園」

▼右の建物辺りが中野石翁の別荘跡 奥は首都高速6号線 撮影松本こーせい

そんな家々のなかに、ひときわ風流で珍しい花や庭木を植栽した家があるので、立ち寄ってみた。すると庭で作業をしていた男たちが、「どこから来たのか」と聞いてきたので、「何家の家臣で、初めて武蔵の国から来たので名所古跡巡りをして植木屋を見物している」と答えた。
するとそんなやり取りを見ていた主人と思われる道服姿の法師が、見物を許可してくれ、彼らに茶をすすめ、酒や食事まで御馳走した。
勤番の二人は、「江戸では茶を出されたら茶代を、酒肴を出されたらそのお代を出す」と聞いていたので、わずかばかりの謝礼を出した。すると主人が受け取ってくれたので、二人は「我ながら訪問の作法よく出来た」と気を良くして、今度は誰々も連れて来ようと思いながら帰ったという。
二人からその話を聞いた藩屋敷では、「もしや中野石翁の別荘のことでは」と調べてみると不安的中、二人を「押し込め処分」にした上で、石翁の別荘に使者を送り無礼を詫びた。

▲松本こーせい画
これに対し石翁は「庭を見たいというのでので見せてあげたまでのことで、無礼をされたとは思っておらず、藩主に報告するほどのことではない」と鷹揚に対応したという。
三田村鳶魚の「大名生活の内秘」によると、「この珍譚は、御書物奉行鈴木岩次郎白藤の長男の孫兵衛桃野という昌平黌の教授が書いたもの」だという。そして「この後繕いは、いわずと知れた苞苴(※おみやげ 賄賂)である。千両取られたか二千両取られたか」と推察している。